第87章 五徳姫の嫁入り
1568年10月 岡崎
秋晴れの空の下、東海道を進む婚礼行列が城下へと入ってきた。
織田信長の娘・五徳姫を、徳川家康の嫡男・信康の正室として迎える日である。
城下は朝から祝賀ムードに包まれていた。
家々の門口には松や菊が飾られ、真っ白な幔幕が秋風に軽やかに揺れる。
道の両側を埋め尽くした町衆は、これから始まる祭りに胸を躍らせていた。
子どもたちは背伸びして輿をのぞき込み、年寄りは手を合わせて婚礼の安泰を祈る。
遠くから聞こえるのは、馬蹄が道を叩く硬質な音と、人々のざわめき。
行列の先頭には槍持ちと騎馬武者が続き、朱塗りの長持ちや反物を積んだ駄馬がその後を追った。
ひときわ目を引くのは、白布に包まれた反物の隙間から覗く、鮮やかな藍色の絞り染めだ。
商人たちは「あれが尾張の染めか」と目を輝かせ、職人たちはその精緻な技法を品定めするように見つめ
ていた。
これは単なる嫁入り道具ではない。
尾張の染色技術と三河の木綿生産力を結びつける、強固な経済同盟の証であった。
反物一反で銀五匁にも達する絞り染めは、京の公家衆が喉から手が出るほど欲しがる高級品だ。
これを三河の良質な木綿に施し、庶民にも手が届く価格で大量生産できれば、莫大な利益が期待できる。
両家が組めば、京や大坂の市場に安定供給できる規模となり、戦費調達にも直結するだろう。
行列に加わる商人たちの視線は、その先の大きな利益を見据えて輝いていた。
城門に近づくと、笛や太鼓の音が賑やかに鳴り響く。
城内の広間では、家康と信長の使者が対面していた。
五徳姫は白無垢に絞り染めの帯を締め、静かに礼をする。
幼いながらも故郷を離れ、見知らぬ土地に嫁ぐ不安を胸に秘めながら、その顔に表情はなかった。
信康は凛とした面持ちで席に着き、家康は静かに信康に告げた。
「この縁組は、三河と尾張を結ぶ縄なり。この縄をしかと結び、たやすく解けぬよう努めよ」
信康は深く頷き、その言葉を心に刻んだ。
この婚姻は、単なる家の結びつきではなく、両国の未来を左右する重要な盟約なのだと理解した。
夕刻になると、城下では祝宴が始まった。
振る舞いの酒や餅が配られ、町のあちこちで即席の市が開かれる。
行商人が反物や飴を並べ、子どもたちが無邪気に走り回る。
酒に酔った男たちは「これで三河も安泰だ」と笑い合い、夜が更けるまで宴の声が絶えることはなかっ
た。
嫁入り道具の中には、唐物の茶器や南蛮渡来のガラス器も含まれていた。
これらは、両家が西国や南蛮との交易に前向きであることを示す贈り物であり、軍事同盟を超えた経済・
文化の結びつきを象徴していた。
この日の婚礼の様子は、のちに「三河尾張結びの図」として屏風に描かれた。
中央には婚礼を執り行う二人が座し、その背後には山のように積まれた絞り染めと木綿の反物。
左右には尾張の金鯱と三河の葵紋が並び立つ。屏風の金色は、両家の盟約が黄金にも勝る価値を持つこと
を示していた。
秋風に翻る布の揺れは、新しい時代の絆の始まりを、城下の人々の目に鮮やかに焼き付けていた。




