第85章 硝石の品質
(1568年8月)犬山城・仁王洞
秀吉目線
犬山城の裏手、仁王洞――。寂光院の山中に隠された小さな里に、硝石の製造場がひっそりと設けられ
ていた。
五年前から“肥え山”を築き、ようやく成果が現れた。
集められたのは白ではなく、灰色がかった粗い硝石の結晶。
まだ純度は低く、土や不純物も混じっている。
それでも大甕三十二個分。ひとつひとつ油紙で蓋がされ、ひんやりとした洞窟に並んでいた。
私は用意していた硫黄と木炭の粉末を前に、「硝石七十五、木炭十五、硫黄十・・・これでいいかな。ま
だ上等とは言えぬが、混ぜ方と詰め方で少しでもよい火薬にしないとな」と、慎重に調合をくりかえして
いく。
分離や精製が不完全な物ばかりなので、少しでも効き目が安定するよう袋詰めや管理にも注意を払い、
「急ぎ落合川砦へ運び入れよ」と指示を飛ばすのだった。
仁王洞の奥で、まだ未完成の“火の力”が、静かに、だが着実に貯えられていった。その力の胎動は、秀吉
の胸に、未来への確かな手応えを与えていた。
■硝石の純度と次ぎへの備え
灰色の硝石を前に、私は静かに呟いた。
「・・これからは、もっと純度を上げねばならぬ。狙撃銃に使う火薬にするには今のままでは不安定すぎ
る。粗悪な火薬では話にならん。さらに精製の工夫をさせねば・・」
火薬の甕や油を落合川砦に搬送する手配をしながら、私は蜂須賀小六を呼び寄せ、念入りに命じた。
「まずは土蔵の奥深くに火薬と油を隠しておけ。だが――万一、砦を明け渡すことになった時は、火薬
と油を梁の上に仕掛け、線香で時間を調節して敵が入りきったところで一気に爆破するのだ」
小六は一瞬表情を引き締め、深くうなずく。彼の目には、秀吉の冷徹な決断への理解と、それを実行する
覚悟が宿っていた。
「爆破の合図や仕掛けは、普段から番を決めておけ。砦も物資も、敵の手に渡すくらいなら灰にしてしま
え」
仁王洞の奥では、新しい火薬精製への挑戦と、戦の“最後の備え”が、静かに、だが着実に進められてい
た。
■ 家康からの手紙と、秀吉の指示
火薬の手配が終わった数日後、秀吉のもとに、三河の徳川家康から一通の手紙が届いた。
『――羽柴殿 、お手紙にてご指南いただいた砂糖黍の件、吉報にございます。
去る五月末に茶屋四郎次郎殿より頂いた砂糖黍の苗を植え付けましたところ、あっという間に身長より高
く育ちました。
生命力強き作物に、領民一同、驚きを隠せぬ次第にございます。
来月には刈り取りの時期を迎えますゆえ、収穫し終わりしだいお送りします。
つきましては、刈り取った砂糖キビを何処に運ぶか、または運搬も羽柴殿が手配してくれるのか、何をど
う手配すればよきか、ご指示いただければ幸甚に存じます。
――徳川家康――』
手紙を読み終えた秀吉は、静かに頷いた。
「ほう、流石は家康殿。手配が早いな」 秀吉はすぐに使い番を呼び、墨俣の火薬工房の責任者である鍛
冶頭の市造を犬山へ呼び出すよう命じた。
市造が秀吉の前に現れると、秀吉は単刀直入に尋ねた。
「市造、砂糖黍の汁を絞り出す圧搾機の開発状況はどうなっている。」
「以前、その構想を伝えていたはずだが」
市造は頭を掻きながら答えた。
「は、殿。構想は頂いておりましたが、火縄銃の量産が優先と……まだ設計の段階でございます。
水車の動力をどう利用するか、試行錯誤しておりまして。」
秀吉は「そうか」と短く応じると、考え込んだ。
砂糖黍の収穫は目前に迫っている。
「急ぎ圧搾機を完成させよ。」
「水車の動力は、火縄銃の製造ラインとは別に、新しく3台連結のものを設置する。」
「それから、絞った汁を煮詰めるための大釜も手配せよ。」
「熱田の茶屋殿にも、砂糖の精製に詳しい者を数名、墨俣に寄越すよう伝えておけ。砂糖の収穫に、万全
を期すのだ」
墨俣の鋳銭所は、鋳物の要でもあるが、制作機械の製造所として今や新たな「産業の心臓」となろうと
していた。秀吉の胸には、遠江と三河、そして尾張を結ぶ新たな富の流れが、鮮やかに描かれていた。
「フッ、何もかも計画通りだ、」
堺に対しても朝廷に対しても有効な手札となる砂糖の可能性にほくそ笑むのだった。
計画通りでないものが1つあった。信長は甘い物が大好きで、信長への献上がバカにならない事を今は知
らない秀吉だった。




