第83章 堺の会合衆との交渉
(1568年5月初め)堺
堺の納屋助左衛門から頼んでおいた砂糖キビが届いたと知らせを受けて、早速堺へ向かった。
「納屋殿、かたじけない、代金はいくらかの?」
「では1鉢1貫でよろしいでしょうか」
「ん~、1貫か。しかたない、全部で80貫じゃな」
「この次はもっと良いものを申し付けください。」
「そうだな,わかった。」
秀吉が御付きの者達に鉢を茶屋殿の店に持って行くように指示した後、そのまま二人は納屋氏の屋敷を目
指した。
賑やかな市の真ん中にある今井家の一番奥にある部屋に通された。
そこで納屋助左衛門を含む会合衆と呼ばれる堺の有力商人たちとの話し合いするため
だ。
先の五万貫の件で、彼らとの間に確かな信頼関係、いや、互いの利益を見据えた「貸し借り」ができた
今、私は彼らが持つもう一つの大きな力に目をつけた。それは、この自由都市堺が誇る、最先端の技術だ
った。
「先日のご協力、まことに感謝いたす」と、私は会合衆の一員である北向道陳に深
く頭を下げた。
「そのおかげで、信長公もご満悦にござる。」
道陳は、鷹揚に頷いた。
「羽柴様も、我らの商いにお力添えくださり、堺も大いに潤っております。」
「して、本日はまた、どのようなご用件で?」
私は、本題へと切り出した。
「実は、この犬山で、軍備の増強を図りたい。つきましては、そちら堺が誇る腕利きの鉄砲鍛冶と船大工
の紹介を願いたいのだ。彼らが持つ技を、我らが犬山にもたらしたいと願っている。」
道陳は一瞬、眉をひそめた。技術は商人にとって最大の武器。それをやすやすと手放すはずがない。
「腕利きの者たちは、いずれも堺の宝。外へ出すことは容易ではござらぬ。」
秀吉は、にやりと笑った。
「もちろんだ。だからこそ、そなた方『会合衆』の力を借りたいのだ。この件が成れば、堺と犬
山、ひいては信長公との関係はより一層盤石なものとなろう。これまで以上の商いの利も約束しよう。そ
れに、堺の鍛冶や大工衆にとっても、新たな働き口、腕を振るう場となるはず。決して悪い話ではござる
まい。」
道陳は他の会合衆の面々と目を合わせ、しばらくの沈黙の後、重々しく頷いた。
「…分かり申した。羽柴様のご期待とあらば、我ら会合衆も骨を折らせて頂きましょう。」
「ただし、人選は我らに一任いただきたい。そして、その『新たな働き口』に見合うだけの、相応の待遇
をお約束くださるならば、ですがな。」
「もちろんだ!」私は満面の笑みで答えた。
■ 商人の未来への投資
私は一気に畳みかけた。
「それでは一つ。」
「この度の協力に対し、我らからそなたらへ、特別な『利』を差し出したい。」
会合衆の面々が、興味津々といった表情で私を見つめる。
「犬山には、信長公の命により、新たな学びの場を設けておる。」
「そこでは、算術(数学)、物の流れを正確に記す複式簿記、そして素早く計算を行う算盤
といった、商いにおいて最も肝要な知識を教えているのだ。」
彼らの目が、にわかに輝きを増した。
これらの知識は、当時の商人にとって喉から手が出るほど欲しいものであり、その多くは秘中の秘として
扱われていた。
「つきましては、そなた方『会合衆』の丁稚たちを、犬山のその学校へ入学させることを約束
しよう。」
「一人につき、年に一度、優秀な者を数名、優先的に受け入れる。」
「彼らがそこで学び、堺に戻れば、そなた方の商いはさらに盤石なものとなるだろう。」
「これこそ、未来への最も確かな投資ではあるまいか?」
会合衆の間に、ざわめきが起こった。彼らは、即座にこの提案の価値を理解した。
目先の利益だけでなく、次代を担う商人たちの育成、そして何より、他にはない最先端の商業知識の獲
得。
これは、彼らにとって計り知れない魅力だった。
北向道陳は、深く、そして満足げに頷いた。
「羽柴様…まことに、恐れ入ります。これほどの『利』を頂けるとは、思いもよりませんでした。」
「我ら会合衆、この上なく感謝いたします。」
「鉄砲鍛冶、船大工の件、必ずや羽柴様のご期待に沿う者を選び、犬山へ送らせていただきましょう。」
「そして、丁稚たちの学びの機会も、まことにありがたき幸せにございます。」
■ 鉄砲鍛冶との取引
数日後、私は会合衆の紹介で集まった腕利きの鉄砲鍛冶たちと、人目につかぬ会合を持った。
「火縄銃を――一年で五百丁。この数を期日通り仕上げてくれれば、報酬は弾む。ただし、そちらの“名
人衆”には犬山に三年間逗留し、技を徹底して我が者たちに伝授してほしい」
鍛冶頭は一瞬、黙り込んだ。
堺の職人にとって、故郷を離れるのは大きな決断だ。
だが、提示された銭袋の重み、そして何より、犬山の地が織田の支配下にあってその安堵が約束されるこ
と、安定した働き口があることに、彼の目には、新たな道への希望と、家族への責任が交錯していた。
やがて、彼は重々しく頷いた。
「承知いたしました。この道場の鍛冶衆、精一杯努めさせていただきます。」
私は釘を刺す。「三年が過ぎれば、どこへでも好きな場所へ戻ってもらってよい。だが、その間に得た新
しい製法や改良点は、外へ決して漏らさぬこと。もし漏らした場合は、犬山を出ることは叶わぬ――この
契約、必ず守ってもらうぞ。」
鍛冶頭は、神妙な面持ちで誓紙に署名し、指印を押した。その瞳の奥には、新たな技術への探求心と、信
長の厳しさを知るゆえの緊張が宿っていた。
■ 船大工との交渉
同じように、私は腕利きの船大工たちにも話を持ちかけた。
「関船を一艘、半年以内に仕上げてもらいたい。そして、その造船の技術は、犬山の若い者にも叩き込ん
でほしい。三年のあいだ、犬山で丁重に扱う。その後は自由に堺へ戻ってよい。」
船大工たちもまた、腕に自信のある者は契約に応じた。彼らの間には、「犬山であれば“新しい船”も思う
存分作れるだろう」という野心がのぞいていた。彼らにとって、信長の庇護のもとで、より大型で優れた
船を建造できる機会は、何よりも魅力的な話だったのだ。
私は、彼らにも同じ条件を突きつけた。
「技術漏洩は厳禁――抜け駆けすれば、与えた報奨も家も、全て取り上げる。誓紙に署名せよ。」
秘密保持の誓紙を取ることも怠らなかった。
こうして、堺の会合衆との交渉は、互いの利益を最大限に引き出す形で成立した。犬山に新しい「鉄砲鍛
冶」と「船大工」の技術の流れができ、同時に堺の商人たちは未来への投資を手に入れた。
大坂湾の風に混じって、戦国の技術と野心、そして秀吉の先見性が密かに動き出していた。
しかし、秀吉の胸には、自分が築き上げる「仕組み」が、やがて「超資本家」の支配を加速させるのでは
ないか、という疑念が微かに胸をよぎった。




