第82章 第82章
(1568年4末月)二条城
板の間に、織田の家臣たちがずらりと並ぶ。評定の議題は、紀伊半島の戦の顛末と、今後の方針だった。
「三好の残党が各地で動いておる。加えて、義昭公より“すぐに上洛せよ”との催促が下された。それゆ
え、今回の戦も途中で切り上げることとなった」
信長の言葉に、重臣たちは沈黙した。
「石山本願寺も三月から攻めてはみたが、兵力が足りず、膠着したまま和睦の勅命が下った。
・・まことに不本意な終わり方であったが、これも運なり」
不完全燃焼の空気が座敷に漂う。
だが、信長はすぐに顔を上げて言った。
「今度の戦で、我らに一番足りぬと感じたのは“海の軍”と“鉄砲”である。これからの世は、陸の軍勢だけ
では天下は取れぬ。船と火縄銃――この二つを、とにかく集めておけ。犬山でも、瀬戸でも、何でもよ
い。軍備の根幹は、まずそこに据える」
家臣たちの顔に、ただならぬ緊張が走った。
彼らの心には、信長の言葉の重みが、深く刻み込まれた。
こうして評定は締めくくられ、「新たな時代に備える」空気が、岐阜城の廊下に漂っていた。
■ 深夜の密談
夜も更け、二条城の奥座敷。信長と私は、燭台をはさんで向き合っていた。
「……伊賀の山は攻めてみて分かったが、力攻めでは犠牲がバカにならぬ」
信長は淡々と口を開く。
「だがあの者たちは、どこかの勢力に絡むでもなく、誰に従うでもない。」
「このまま放置して監視するだけでよいだろう。」
私はうなずいた。
「雑賀は本願寺に動かされる。本願寺があれば、いくらでも新しい“火種”が生まれます。」
「いっそ取りつぶしてしまうか、石山から追い出して小さな寺に押し込めてはどうか。」
信長は静かに目を細める。その表情には、新たな戦略への思考が宿っていた。
「石山本願寺がなくならぬかぎり、雑賀も紀伊も落ち着かぬだろう。――だが本願寺を支えているのは、
三好と、裏で動く毛利だ。」
私は声を潜めて続けた。
「石山への補給はすべて、海を通して毛利と瀬戸の海賊が担っています。その瀬戸海賊は、雑賀海賊より
さらに強大です。こちらの織田艦隊は雑賀海賊にも敗れるほど――このままでは瀬戸海賊には到底敵いま
せん」
信長はしばし沈黙し、机の上の地図に目を落とす。
「北陸でも、越前の朝倉が若狭に進出し、加賀の本願寺方は越中の椎名・神保を呑み込み、能登では畠山
が内輪もめ……このまま本願寺が北陸に食い込めば、上杉は能登・越中に手を取られ、武田が自由にな
る。信濃も飛騨も危うい」
私は思案する。
「北陸を抑え、海軍を鍛え、本願寺・雑賀・瀬戸海賊を一気に切り崩す策――陸も海も、今こそ本気で作
り変えなければなりません」
信長は静かに頷いた。
「陸の軍勢と海の力、両方を一気に揃えよ」
闇の奥で、蝋燭の火がかすかに揺れていた。
その小さな炎は、彼らの壮大な野望と、迫り来る激動の時代を暗示しているかのようだった。
秀吉の脳裏に、陸の限界を超え、海へ出るという、自身の未来のビジョンへと繋がる必然の一歩が、より
鮮明に描かれていた。
それは、信長の命と、彼自身の抱く壮大な構想が、今まさに重なり合おうとしている瞬間だった。




