第81章 伊賀と雑賀――抵抗と「仮の和睦」
(1567年11月末~翌年4月・紀伊半島)
紀伊平定作戦の最中、秀吉は伊賀への交渉も重ねていた。
「上田や山田の里で、こちら(犬山)に移る気のある者はいないか」
10月末までに、山田佑才に現地の反応を探らせていた。しかし答えは冷ややかだった。
「・・・我が山田の里ですら、誰ひとり”犬山へ移る”話など耳を貸しませんでした。」
佑才自身も「聞くまでもない。伊賀者の多くは土地と一族に強く縛られている」と心から思っていた。
結局、伊賀の忍びは誰ひとり犬山へは動かなかった。
一方、紀伊の雑賀衆は石山本願寺と堅く結び、各地で激しい抵抗を繰り返した。
鉄砲隊を繰り出し、川筋・要害でゲリラ戦を挑んできたが、6か月にわたる戦と交渉の末、領地安堵を条
件に“形だけの帰順”で終息する。
その「形だけ」という言葉の裏には、秀吉の苦い経験と、理想と現実の乖離があった。
■ 伊賀忍び――土地への執着と「家」の重さ
私は伊賀忍びの頭領、上田義重のもとに、密かに使者を送った。
「犬山に来れば、禄と新しい家、自由な働き場を用意する。どうだこれ以上抵抗すれば女子供でも容赦な
く踏みつぶされるぞ」と。
義重は使者に静かに首を振った。
「我ら伊賀者は、先祖伝来の“山と水”にこそ魂を置く。」
「いかなる恩賞よりも、家と里を捨てることはできぬ・・・」
山田の里にいた古参の忍びも同じだった。老いた忍びが一言だけ、「”先祖代々の墓”がここにある。」
「それを捨てては、先祖にも子孫にも顔向けできぬ」と呟いたという。
山田佑才が後日語った。
「殿、伊賀者にとって“移る”とは死を意味します。」
「使者を出したこと自体が、誠意として伝われば十分でございましょう」
秀吉の心には、彼らの土地への強い執着と、自身の理想との間に存在する深い溝が、改めて刻み込まれ
た。
彼の脳裏に、あの白装束の声が響いた。
「お前の『利』は、彼らの『根』には届かぬ。これは『稲作文明』が選んだ『物語』なのだ、『お前の生
きた時代の物語』とは別の『物語』」
秀吉は、その言葉に深い無力感を覚えた。
合理性や未来の知識が、稲作文明の根源的な「価値観」や「長い年月で醸成された物語」の前では、いか
に無力であるかを痛感したのだ。
長島で味わった絶望が、形を変えて三度彼を襲っていた。
そして皆殺しの命が信長から出された。
■ 雑賀衆――石山本願寺と銃火の駆け引き
一方、紀伊の雑賀衆は最後まで強硬だった。
「我ら雑賀衆は、いかなる大名にも屈せず」と、石山本願寺からの援兵を受け、独自の鉄砲隊を山野や川
辺に展開し、奇襲と夜討ちで織田軍を苦しめた。
ある夜、雑賀の若い頭領が密かに秀吉本陣を訪れた。
「降るに降れぬ。だが村を焼かれれば、民も寺も生きてはおれぬ」秀吉は静かに答えた。
「戦の勝敗ではなく、次は“町を残す道”を選ぶがよい。雑賀にしかできぬ働きもある」
その後も交渉は難航し、鉄砲を手放さぬこと、名目的な領地安堵――双方が「落とし所」を探り合い、最
後は“文書一枚の形だけの帰順”となった。
その和睦の裏には、秀吉の粘り強い交渉と、相手の心理を読み解く彼の才覚があった。
しかし、秀吉の胸には、この「形だけの和睦」が、いかに脆い「蓋」に過ぎないかという苦い予感が去来
した。
彼らの信仰は、利や理屈では動かせない、より根源的な「空気」として存在していることを、長島で痛感
していたからだ。
■ 和平後の空気――火種の残る“表と裏”
冬の紀伊の国。村々では表向き「織田家安堵」の札が立ち、年貢や検地も“新政”の名のもとで始まった。
だが、町角では誰ともなく「またいつか、戦が戻るかもしれぬ」と囁きあう声も消えなかった。
伊賀の山では、忍びたちが静かに影を潜め、雑賀の寺では、本願寺からの使者が再び来る日を待つ者もい
た。
「表は従順、裏は沈黙」――秀吉は、そうした土地の空気を敏感に感じ取り、「政は勝っ
てからが始まりだ」と、新しい統治策を練り始めていた。
彼の心には、表面的な平和の裏に隠された、根深い対立の種が見えていた。




