第77章 高炉の実用化
(1567年10月)墨俣・瀬戸
瀬戸の登り窯を前に、職人たちと材料を吟味していると、ふいに私は、墨俣で初めて高炉を築いた日のこ
とを思い出した。
■ 墨俣(回想シーン)
――あれは、もう5年以上前になる。
墨俣築城後、矢じりの鉄が足りないので大量に鉄の生産をする為に簡易的に作った物がはじまりだった。
粘土に藁を混ぜた小さな高炉。
最初の一、二度は勢いよく火を吹いたものの、すぐに炉壁が割れて崩れ落ちた。
矢じりだけならそれでもよかったが欲が出たこととどの道今後は鉄が多く必要になることは明白。
ならば出来るとこまで研究を進めようと考えて職人達に昔趣味で通った窯元での体験と、歴史で勉強した
産業革命のころの溶鉱炉の仕組みを思い出しながらアドバイスをしていった。
「また壊れたか・・・」
肩を落とす職人たちの前で、私は炉の割れ目をじっと観察し、「火の回りが早いところは、粘土だけじゃ
持たん。
石で補強して、出入口は二重にしてみろ。
それと、空気をもっと通すために炉の下に溝を掘ってみてはどうだ」と声をかけた。
石を組み、粘土を厚く――改良のたびにまた壊れ、また作り直す。
私は「今度は焼成粘土で内側を固め、耐火石も組み合わせてみよう」とさらに助言を重ねた。
犬山にいる間は必ず報告を求め帰りにはアドバイスをして返したり直接行って指示をした。
そうして何度も失敗と修理を繰り返し、5年後の1567年4月ついに頑丈な明代中国式の高炉が完成した。
「これなら二十回は焼ける」職人たちの歓声、満足げな笑顔が昨日のことのように浮かぶ。
――あの時の経験と工夫が、いま瀬戸での“ものづくり”にそのまま生かされようとしている。
秀吉の脳裏には、過去の失敗と、それから学んだ教訓が鮮やかに蘇っていた。
■ 瀬戸編 (回想シーン)―登り窯への応用・秀吉の指導―
墨俣の現場で学んだ知見を、瀬戸の新しい窯づくりに活かす時が来た。
職人たちが磁器用の登り窯を作るのを見守りながら、私は言った。
「高炉の技と同じだ。粘土に蛇紋岩を混ぜ、空気の流れは必ず“登り窯”の勾配に沿わせよ。」
「火の入口は厚く、煙の抜け口は小さめに絞ると熱がこもりやすい。」
「焼きムラが出たら、次は薪の量を加減して調節せよ。」
「一度でうまく行かずとも、失敗の跡をよく見て直せば、必ず良い窯になる」
職人たちはその言葉を一つ一つ確かめるように動き、やがて安定して高温を保てる登り窯が完成した。
最初の火入れで焼き上がった白磁の器を手に取ると、「これなら、明にも負けぬ磁器になる」心の中で静
かに頷いた。
その白く輝く器には、この国の新たな産業の未来が映し出されているようだった。
職人たちに経験させ自分たちで改良していく過程こそ力だ。その思いを再認識するのだった。
■「瀬戸物」ブランドの新たな夜明け
瀬戸の町は、「新生瀬戸焼」の里と変身した。登り窯の技術は遠い昔から伝わり、良質な釉薬陶器は瀬戸
物の名で全国の上客に珍重され始めた。
壺、甕、皿――庶民から寺院、公家まで知られるようになった。
仏具もまた瀬戸の重要な看板商品となっていた。
だがこの春、私はそこにさらに新しい風を吹き込もうと動き出した。
墨俣で発展させた高温・長持ちする窯の技術を現地に導入し、瀬戸物の量産と品質安定を一段と加速させ
たのである。
町には仕事を求めて多くの職人や流れ者が集まり、釉薬陶器の生産はかつてない規模で拡大し始めた。
日常の器だけでなく特注の仏具や格式ある酒器など、権威の拍つけによるブランド戦略を踏襲するこだ。
「―これが完成すれば、明(中国)や南蛮にも堂々と売り込める。」
「瀬戸焼を海外輸出の目玉に育て上げてやる。―」
健一の胸には、戦乱の世の中で“ものづくりこそ”天下の礎”になるという確信があった。




