第71章 無力感再び
(1567年2月)石山
堺での折衝を終え、私は石山本願寺へと向かった。
信長の命は「五千貫」、だが相手は天下の一向宗総本山、武家の論理がそのまま通じる相手ではない。
本堂の奥、石山門跡・顕如上人とその側近たちが並ぶ前に私は膝を正す。
「信長公より、都の復興と天下安寧のため、石山より五千貫を賜りたいとの仰せです。」
「このところ、寺内町の商いも盛んと聞き及ぶ。ご協力願いたく存じます」
顕如は微笑みを浮かべて返す。
「羽柴殿――石山は仏法の道場、世俗の利得にあらず。むろん、世の安寧を祈るのは我らも同じこと。」
「しかし今、各地の門徒も重い年貢や軍役にあえいでおり、容易に金を差し出すは叶いませぬ」
私は穏やかに会釈し、さらに一歩踏み込む。
「承知しております。ただ、石山本願寺とその寺内町――ここは摂津の経済と流通の要。」
「今、都の再建にご助力いただければ、今後も”寺内町の自由商い”と”寺領安堵”を信長公が約束なる。」
「逆にご協力なき場合、諸大名の”警戒”が強まるのは避け難いかと」
顕如の目が一瞬だけ鋭く光る。
その瞳の奥には、信仰を守る堅固な意志と、現実を見据える冷静さが同居していた。
■緊迫の隣室
その頃、会談が行われている隣の部屋では、長島一向一揆で親族や友を失った者たちが、怒りと悲しみを
胸に押し殺し、緊迫した交渉の様子に耳を傾けていた。
彼らの多くは、本願寺の教えを深く信じ、命をかけて信長に抗った者たちだった。
「・・五千貫だと? よくもぬけぬけと・・」
「あれほど多くの者の命を奪ったというのに・・」
すすり泣く声が漏れそうになるのを、別の者が必死に抑える。
彼らの胸には、信長への深い憎しみと、門主がその憎しみを晴らしてくれるはずだという、かすかな希望
が渦巻いていた。
しかし、顕如上人と秀吉のやり取りは、彼らの期待とは異なる方向へ進んでいるように見えた。
「上人は一体、何を考えておられるのだ」
「我らの犠牲は、無駄だったというのか」
彼らの心には、怒りと絶望、そして不信感が募っていく。
交渉がまとまれば、それは表面的な平和を意味するかもしれないが、彼らの心に刻まれた傷と憎しみは、
決して癒えることはないだろう。
「五千貫は払わない」
顕如はゆっくりと、しかしはっきりと告げた。
「羽柴殿、五千貫の件、ご期待に沿うことは叶わぬ。」
「石山は仏法の道場であり、財を蓄える場所ではない。」
「信徒も困窮の極みの中から喜捨して頂いた大切な仏道の為のお金。」
「その大切なお金を仏法の道場以外で使うことはできぬ。」
その言葉は、まるで氷の刃のように私の胸に突き刺さった。
私の顔から血の気が引くのが分かった。
隣室で息をひそめていた者たちの間に、かすかなざわめきが起こる。
怒りか、安堵か、判別しがたい異様な空気が漂い始めた。
「上人・・・それは、信長公の御意に反すると」
私は震える声で尋ねた。
顕如はただ静かに首を横に振る。
その目はもはや微笑みをたたえておらず、ただ静かに、しかし有無を言わせぬ決意を宿していた。
■異様な空気の中を帰る
交渉は決裂した。
私は重い足取りで本堂を後にした。
廊下を進む私の背中に、隣室から漏れ聞こえる人々の、抑えきれない怒りと歓喜のなぜ混ぜの声が渦巻
く。
それはやはり、信長公への反発と、私への嘲りだと気配でわかるのだった。
石山本願寺の門をくぐる時、私は振り返った。そこには、夕闇に沈みゆく巨大な寺院が、まるで信長に牙
を剥くかのように、どっしりと構えていた。
これから起こるであろう事態を予感させる、不気味な静けさが周囲を包んでいた。
心臓は、重く、速く鼓動していた。
この決裂が、一体どれほどの『知らない者達、理解できない者達』の血を流すことになるのか、その想像
は、私の背筋を凍らせるには十分だった。
その瞬間、彼の脳裏に、あの白装束の声が響いた。
「抗うな。お前の『利』は、彼らの『怨念』には勝てぬ。これは『空気』の暴力だ。そして、その『空
気』は、この国の『定められた法則』の一部なのだ」
秀吉は、その言葉に深い無力感を覚えた。
合理性や未来の知識が、感情と信仰が織りなす「感情集合体」である「空気」の前では、いかに無力であ
るかを痛感したのだ。
長島で味わった絶望が、形を変えて再び彼を襲っていた。
そして、信長が心に決めた事が、この瞬間、秀吉には痛いほど分かってしまった。




