第70章 搦め手には搦め手
(1567年2月)堺
■秀吉視点
会所の静けさ。私は、堺の豪商たちにわざと気さくな笑みを浮かべて切り出した。
「最近、犬山やその周辺の絹反物や清酒、干し椎茸が堺でもよく見かけると聞く。」
「なかなか評判もよいらしいな――」
商人頭が「お恥ずかしい限り」と頭を下げた。
私は少し声を落とし、静かに釘を刺す。
「だが、もし信長公のお求めに堺が応じないとなれば・・その品々も、これからは直接京や博多、小田原
にだけ回すことになるやもしれぬ。」
「堺の商いも、流通の網を外されれば困るはずだ」
会所の空気が一瞬だけ張り詰める。堺の商人たちは、自分たちの繁栄が織田の動向に左右される現実を改
めて突きつけられたようだった。
■逆転の交渉
年長の商人が、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、侮蔑でも諦めでもなく、むしろ好機を伺うかのような光を宿していた。
「羽柴様のお言葉、まことにごもっとも。されど、この堺の商いとて、ただで成り立っているわけではご
ざらぬ。」
「信長公のお求めに応じるとなれば、我らとて相応の覚悟と、それに見合う『利』が必要にございす。」
私は彼らの出方を伺った。彼らは、ただで五万貫を出すつもりはない。
「では、いかがなされるおつもりか?」
すると、別の商人が懐から小さな包みを取り出した。
「実は、この堺には、遠い南蛮の地より、珍しき品々が届いております。火薬の原料となる硝石。これは
今、戦乱の世においては何よりも貴重な品。」
「そして、美しきガラス器、異国の香りを放つ珈琲豆、そして香辛料や香木。」
「いかがでございます、見事な物ばかりでございましょう」
これまで見たこともない織物ビロードや硝石どが目を引くが、欲しい者の中に
微妙な物が潜んでいる。
商人はにやりと笑い、私に硝石の結晶と、鮮やかなビロードの切れ端を示した。
「これらの品々は、信長公の御威光があればこそ、さらに価値を高めましょう。」
「つきましては、この五万貫、ただお渡しするのではなく、羽柴様には、これらの南蛮の品々を一括でお
買い上げ頂きたい。」
「さすれば、我らはその代金の一部をもって、信長公へのご用立てと相成ります。」
豪商たちは、逆に「売り込み」をかけてきたのだ。
彼らは、信長の要求を逆手に取り、滞留していた高価な南蛮品を売りつけることで、損をせずに五万貫を
「捻出」しようと目論んでいた。
「さらに!」と年長の商人が続けた。
「今後、南蛮との新たな商いの機会が生まれた際には、まず羽柴様にその情報を優先的に、かつ有利な条
件でご提供致しましょう。」
「必ずやそれら南蛮の品が重宝されましょうから、その利は計り知れませんぞ!」
彼らのしたたかな商魂に、私は思わず苦笑を漏らした。」
「この堺の商人たちは、本当に「転んでもただでは起きない」者たちだ。
しかし、この提案は、信長公にとっても悪い話ではない。
硝石は火器製造に不可欠であり、珍しい南蛮品は、畿内の富裕層を魅了するだろう。
■秀吉の新たな切り札
私は大きく頷いた。
「よかろう。その提案、受け入れよう。五万貫の件は、それをもって相応の取引と見なす。」
「その代わり、南蛮の品々、そして今後の商いの機会は、確かに私に優先的に回せ」
そして、私も新たな切り札を切った。
「そちらが南蛮からの品を出すならば、こちらも新たな『宝』を用意している。」
私は身を乗り出し、声を潜めた。
「実は、伊勢湾の深き海や英虞湾の浅き海には、未だ知られざる『富』が眠っている。
我らが調べを進めたところ、そこには、まばゆいばかりの真珠と、鮮やかな赤や白に輝く珊瑚
(サンゴ)が豊富に採取できることが分かったのだ。」
豪商たちの目が、驚きと期待で輝いた。
真珠も珊瑚も、当時から非常に高価な装飾品として重宝されていた。
「これらは、南蛮の品にも劣らぬ、いや、それ以上に貴重な品である事は言うまでもないな。
この2品は南蛮人と明の富豪が欲しがる。
当然京の公家や大名おぬしら商人同士でも、どの方向からも欲しがるであろう品だな」私は続けた。
「信長公より正式な採取の許可が出次第、すぐにでも採取に取り掛かる所存。」
「その暁には、この真珠と珊瑚を、まず堺のそなた方に独占的に卸すことを約束しよう。」
「ただし、その際には、相応の準備と先行投資が必要となるゆえ、今後の商いにおいて、堺には更なる協
力を願うことになるだろうがな。」
豪商たちは、互いに顔を見合わせた。
南蛮貿易で稼ぐだけでなく、国内に眠る新たな巨大な利権。
秀吉の提案は、彼らの商魂を揺さぶるには十分すぎた。
「かしこまりました! 羽柴様の新たな商い、我ら堺の商人も、精一杯尽力させていただきます!」
彼らは満面の笑みを浮かべ、取引成立の印をその場で書き交わした。
■さらなる五万貫
私は、彼らの満面の笑みを見て、最後の仕掛けを繰り出した。
「うむ、心強い限りだ。しかし、この真珠と珊瑚の採取、そしてそれを安定してそなた方に供給するに
は、莫大な費用がかかる。」
「船の手配、潜りの者たちの確保、そして何より、信長公の御許可を得るための準備にもな。」
私は一呼吸置き、彼らの顔を一人ずつ見渡した。彼らの期待に満ちた顔が、わずかに引き締まる。
「そこでだ。この新たな『宝』をいち早く、そして独占的に手に入れるための『先行投資』として、先の
五万貫とは別に、もう五万貫のご用立てをお願いしたい。」
会所の空気が、再び張り詰めた。
豪商たちの顔から、さっきまでの笑みが消え、計算と警戒の色が浮かぶ。
「羽柴様・・それは、いささか・・」と、商人頭が言葉を濁した。
私は、彼らの動揺を見透かすように、穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で続けた。
「考えてもみよ。この真珠と珊瑚が市場に出回れば、その利は計り知れぬ。南蛮の品々どころではない、
まさに国を動かすほどの富となるだろう。
この先行投資は、その莫大な利益を独占するための『権利金』だと思えばよい。
もし、そなた方がこの機を逃せば、この新たな宝は、他の商人に流れることになるやもしれぬぞ。」
私は彼らの目を真っ直ぐに見つめた。
彼らは、秀吉の言葉の裏にある、信長の威光と、この独占的な商機を逃すことへの恐れを感じ取った。
「それに、この五万貫は、決して無駄にはならぬ。
採取の体制を整え、そなた方に安定して供給するための『元手』となるのだ。言わば、そなた方と我らの
『共同事業』への出資と考えれば、決して高い買い物ではあるまい。」
豪商たちは、再び互いに顔を見合わせた。
彼らの脳裏には、真珠と珊瑚がもたらすであろう巨万の富と、それを逃すことへの後悔が交錯していた。
年長の商人が、観念したように深いため息をついた。
「・・羽柴様には、まことに恐れ入るばかり。分かり申した。この新たな商いへの『先行投資』として、
さらに五万貫、ご用立て致しましょう。」
「ただし、その真珠と珊瑚の独占供給、そして今後の商いの機会は、何卒、堅くお約束くださいますよ
う。」
「約束しよう!」
私は力強くうなずき、豪商たちは、やや青ざめた顔で、しかし新たな巨大利益への期待を胸に、追加の五
万貫の供出と、取引成立の印をその場で書き交わした。
こうして、武力だけでなく“商いの糸”と、堺商人たちのしたたかな商魂、そして秀吉が提示した新たな富
と、その「先行投資」によって、戦国の経済戦がひとまず決着したのであった。
「おっと、忘れる所であった。おぬし等の中で琉球と懇意の物はいるか?」
「納屋殿、呼ばれておるぞ」
「納屋助左衛門と申します。」
「そうか納屋殿、済まぬが琉球の南の島で栽培されているキビを持ち帰ってほしい」
「はて、砂糖ではなくキビの方でございますか・・・」
「そうだ、南の植物だとは知っている。じゃが少しためしてみたいことがあるだ。」
「キビの切り口を鉢に突き刺して毎日水をかけてからさないようにの」
「たのんだぞ」
そう言って立ち去った。




