第69章 馬揃えの裏側:それぞれの覚悟
(1567年1月)京
■筒井順啓の引き込み
永禄十三年(1570年)冬の京、大路。朝もやがわずかに残る、凍えるような空気の中。
大路を埋め尽くす群衆のざわめきが、すっと静まる。白い幕に囲まれた御簾の奥に、人々は視線を集中させた。
大和の国人衆の筆頭、筒井順慶は、傍らに立つ家臣の松倉右近と共に、その場に控
えていた。冷え切った指先を擦り合わせながら、順慶は呟く。
筒井順慶: 「・・あの白い幕、御簾の奥におわすは、帝か」
松倉右近: 「左様にございます、殿。今まさに、御所より御出座と」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、群衆の喧騒が波が引くように消えた。
冬の澄んだ空気には、馬の蹄音と旗が風にはためく音だけが響き渡る。
松倉右近: 「信長公の威光あってのことにございます……ですが、馬揃えとは言え、これは軍勢の誇示に違
いありませんな」
順慶は口元を引き締め、静かに頷いた。
筒井順慶: 「うむ。帝の御前で、あれだけの騎馬武者を並べるとは・・三好や本願寺に、見せつけておる
のだ。」
「まさしく“天下布武”の刻印よな。我が大和でも、久秀めが怯えておることだろう」
松倉右近: 「・・それだけではございません、殿。実は昨夜、武田の密使が京入りしたと、耳にしまた」
順慶は眉をひそめ、右近を見た。
筒井順慶: 「なんと? 信玄が、和睦を・・?」
松倉右近: 「正確には、“信長の出方次第”というところかと。」
「甲斐は上洛よりも信濃・北関東に重きを置くゆえ、京の力関係は掌握しておきたいのでしょう。」
「信長公も、それを承知の上でのこと。」
「この馬揃え、武田を揺さぶるための見世物でしょうな」
筒井順慶: 「はは、さては信長公、武田を揺さぶるために、こうして都で見世物を打ったか。」
「そのついでに、我らのような畿内の小大名にも、己の力を誇示するとは・・」
松倉右近: 「他にも動いております。」
「三好の残党は密かに丹波・摂津に使者を放っているとか。」
「比叡山の坊主どもも、陰で公家に取り入っておる様子」
筒井順慶: 「比叡山、焼き討ちで痛手を負ったはずだが、まだ足掻くか」
松倉右近: 「焼かれたからこそでしょう。」
「信長に近い近衛家と、距離を取りたがる九条家が分裂し始めておりますれば」
筒井順慶: 「ふむ・・摂家五家の間に綻び、か。ならば帝の周辺は信長にとっても一枚岩ではないな。」
「久秀も、この状況をどう見るか」
その時、一際大きなざわめきが起こった。
松倉右近: 「・・・殿、信長公が前へ出られました。あれが雪の中の黒馬、信長の愛馬――」
漆黒の馬に跨り、織田信長が颯爽と現れる。その威容は、凍てつく冬の京の景色に圧倒的な存在感を放っ
ていた。
順慶は信長の姿をじっと見つめる。
彼の胸中には、長年大和で覇権を争ってきた松永久秀への対抗心、そして信長という新たな「天下人」に
対する複雑な思いが交錯していた。
筒井順慶: 「見事な姿・・。して、藤吉郎、そなたの役目は?」
順慶は、少し離れた場所に控える藤吉郎に声をかけた。
藤吉郎: 「この馬揃えの後、石山・堺へ参ります。例の金集め――寺社から商人、みな手練手管で引っ張
り出さねばなりません」
順慶は、信長の練り上げた周到な計画に感嘆した。
筒井順慶: 「京に金を流し、武士に見せ、帝に拝し、商人を籠絡する。すべてを、掌の上か。なるほど、
久秀めと争い続けるだけでは、もはや天下に乗り遅れる」
藤吉郎: 「されど信長公は油断はなされませぬ。毛利も様子をうかがっておりましょうし、本願寺は、い
ずれまた刃を交えるやもしれません」
筒井順慶: 「信長公の胸中は如何に?」
藤吉郎は、冷え込んだ空気に白く染まる息を吐きながら、確信に満ちた目で答えた。
藤吉郎: 「本日、儀式が終われば内々に申されるとか。されど、こうも堂々と帝の前に軍を並べるあた
り、これはもう、征夷大将軍をよこせという誇示なのでしょうか・・」
信長の野望は、いづれ将軍の座では収まりきらない、新たな天下への道を指し示すことになる。順慶は、
この新たな波に乗り遅れてはならないと、固く心に誓った。
馬揃えの華やかな光景の裏で、それぞれの思惑が複雑に絡み合い、日本の未来は大きくうねり始めていた
のである。
陰謀会議「五摂家の夜」
鷹司信房「さて――皆々、御所の寒気より、このすみ酒を飲みながら方がよいであろう」
近衛前久「うむ、冷える京にて信長殿が熱気を振りまいてくれるとは。
今日の”馬ぞろえ”、まさに時代の転換を見せつけたものよ」
一条内基「チィ・・見せつけられたのは、帝に対する武威であろう? 我らが
軽んじられぬよう、振る舞いを正さねばなるまい」
九条兼孝「それがしも同感。あれではまるで、公儀の座を我が物にせんとする振る舞いだ。
義昭殿はいかが思いでしょうな。天子を盾に、己が威を磨く振る
舞い――驕りと映るやもしれぬ」
二条晴良「だが、武家はそのように動くもの。焼き討ちを受けた比叡山のように、遅れれば焼かれるぞ。
火急の理を知らぬまま貴族面をしておれば、骨まで灰となろう」
鷹司信房「さて・・ならば、諸卿の立ち位置を明らかに致そう。そなたらは、
この信長とどう付き合うおつもりか?」
近衛前久「我が近衛家は、すでに彼と誼を通じて久しい。彼は御所の修繕に財
を出し、帝の権威を武家の間に知らしめた。・・これを評価せずして何を評価するか」
一条内基「成り上がり者の金で御所を飾るなど、恥辱も甚だしい。千年の都が聞いて呆れるわ」
九条兼孝「我ら九条家は・・まだ決めかねておる。信長の力は無視できぬが、三好との古き縁もある。
どちらにつくにも、時を見ねばなるまい」
二条晴良「ふ、我ら二条家は風を見るのが家風よ。今は幕府が風下、信長が風上――
ならば風に乗る。それだけの話よ」
鷹司信房「では、我が鷹司家はこう定めよう。信長とも石山本願寺とも、門戸を閉ざさぬ。
公武の調和を図るのが我らの役目。いかにして火を回避するか・・それに尽きる」
近衛前久「要するに、前へ進む者と、立ち止まる者、風を読む者、足場を守る者・・揃いも揃ったな」
一条内基「その前へ進む者が、帝を担ぎ、次に誰を斬るかを見極めねばなるまい。
信長が「王」を欲したとき――我らの誰かが血を流すことになるやも知れぬ」
九条兼孝「・・ならば、今のうちに血を流さぬ道を探すしかあるまい。」
「信長が帝の剣を求める前に、我らが鞘を用意しておくのだ」
鷹司信房「・・諸卿、それがしは忘れぬ。帝とは、剣に非ず。」
「剣が震えても、鞘が裂けても、帝の御名は雲の上に在す」
二条晴良「だがその雲を、信長は矢で撃ち落とすやも知れぬぞ。」
「いずれ・・天が地に下る時が来るかもしれぬ」
近衛前久「その時は、その時だ。だが今宵は、盃を交わそう。」
「風は冷たくとも、火の気はまだある」




