第61章 今川の終わりの始まり
春の浜松、桜の舞う城下に集うは、三国同盟の牙――秀吉と徳川、そして北条。戦場の音が遠くに聞こえる中、始まるのは静かな軍議と、調略の火花。秀吉が率いるのは、戦うだけでなく“造る”こともできる常備軍。田植えの季節が戦の鍵を握る今、戦術だけでなく「軍制」が問われる時が来た。
吉田城を経て、秀吉の軍勢は春の浜松城へと到着した。
城下の桜は散り始めていたが、戦支度に忙しい空気があたりに満ちている。
浜松城では家康がすでに6,000の兵を率いて待っていた。
合流した軍勢の力強さに、家中の士気も否応なく高まっていく。
合流早々に開かれた軍議で、急報がもたらされた。
「北条がすでに東から今川領へと進軍を始めたとのこと――」秀吉は家康と顔を見合わせる。
(北条も動いた、機は熟した。今川を巡る包囲は、いよいよ締まる)
互いの目に、好機到来の確信が宿っていた。
すぐさま秀吉は、伊賀者の山田佑才を呼び寄せた。
「佑才、今川方で寝返りそうな武将のもとへ密かに入れ。」
「城主や重臣の中には、すでに心が揺れている者も多い。」
「そなたの腕にかかっているぞ――調略は命を賭けた戦、慎重に、確実にな」
佑才は静かにうなずき、夜の帳が下りる前に姿を消した。
彼の背中は、闇に溶け込むかのようだった。
秀吉は家康とともに、三日間だけ軍を休ませることにした。
長い行軍の疲れを癒し、兵糧や装備の点検も抜かりなく行わせる。
三日後、天竜川以西の今川方の城や砦へ、いよいよ攻撃を仕掛けるべく軍勢をまとめ上げた。
戦いの狼煙が、春の遠江に上がる――(これよりが、三国同盟の真価を問われる時だ)
■浜松城軍議の回想
浜松城の大広間。
信長からの援軍として、秀吉が徳川家康と諸将を前に着座していた。
軍議の席には、本多忠勝、榊原康政ら徳川の重臣たちが居並び、その傍らには、すでに彼らと打ち解けた
様子の前田慶次が、豪胆な笑みを浮かべて控えている。
秀吉が机上の地図を指し示しながら、口火を切った。
「田植えの季節が来る前に、天竜川以西を一気に平定する――これが、この戦の最大の要となります」
家康は静かに頷いたが、不安の色を隠しきれない様子だった。
「それは承知。」
「だが羽柴殿、遠州の田植え時期となれば、二俣城周辺の農兵たちは田畑に戻らねばならぬ。」
「その間、徳川軍の兵力は二千が精一杯になるやもしれませぬ」
その言葉に、徳川の重臣たちがざわめいた。 秀吉は迷わず応じた。
「ご安心くだされ、家康殿。我が秀吉軍は、もとより普請・土木に従事していた者たちを常時雇用してい
る部隊。彼らは兵であると同時に、土地を耕すことにも長けた者たち。」
「ゆえに、田植え期でも戦の手を緩めることなく戦えまする」
徳川家臣団の視線が、秀吉の背後の精鋭部隊に注がれる。
彼らにとって、常備軍の存在は、まさに異質なものだった。
そのざわめきの中、本多忠勝が口を開いた。
「ほほう、羽柴殿の軍は、農兵とやらの都合に左右されぬ、と。これはまた、聞きしに勝る珍しい御手並
みですな!」 榊原康政も続く。
「これでは、いかなる時も戦を続けられるということか。我が三河にはない、まこと恐ろしき軍制よ
」
その言葉に、慶次が豪快に笑いかけた。
「恐ろしき、とはご冗談を。これぞ殿が目指す、民を飢えさせぬための知恵の結晶にござる。」
「三河の皆々様も、いつかその恩恵にあずかれる日が来ましょうぞ!」
慶次の軽妙な口ぶりに、本多忠勝が「はっはっは!」
と快活に笑い、榊原康政も苦笑しながらも頷いた。
すでに彼らが慶次を気に入っている様子が、その場の空気に見て取れた。
徳川の重臣の一人が、この機を逃すまいと進言した。
「敵の今川方も、同じく田植え時期には兵が大きく減ります。」
「いっそこの機を逃さず、掛川城まで一気に攻め上がるべきかと!」
家康も決意を込めて言い添える。
「うむ。戦の潮目はこの春だ。皆、準備は怠るな」
――田植え前までに天竜川以西を制し、掛川まで軍を進める。
この一戦が、遠江の命運を分ける。
軍議の熱気を思い出しながら、秀吉は浜松城の天守から、遠く春霞に煙る天竜川の流れを見つめていた。
軍議の中で、秀吉の「戦の哲学」が明らかになる。首級を競う戦いから、俸禄と秩序の軍へ――それは戦国という枠組みを超える構想だった。次章では、その「新たな軍」の実態と、竹・弓・弩・馬を駆使した実戦に迫る。秀吉軍の強さの真髄が、いま明かされる。




