第59章 浜松への援軍準備
信長との密談を終えた秀吉は、次なる動きへ――それは、徳川家康への援軍であった。
本章は、いよいよ「行動篇」へと移る転換点。
忍び、前田利家・慶次を従え、家康のもとへ向かう道中。
ただの援軍ではなく、「徳川の覚悟を引き出す」ための出兵である。
秀吉の「人を見抜き、人を動かす力」が如何なく発揮されてゆく。
(1566年1月) 犬山城
密談を終えた秀吉は岐阜城をあとにし、まずは犬山へと馬を走らせた。
城下に新年の空気が残るなか、内政と戦支度を手短に済ませると、彼はすぐさま次の動きに移った。
「さて、いよいよ東への道を開く時が来た。徳川殿への援軍、抜かりなく手配せねばなるまい」
秀吉は奥座敷で、静かに呟いた。
まず呼び寄せたのは、伊賀・甲賀の忍び頭――山田佑才。
「佑才、すぐに浜松までの道筋を調べ、気配りを怠るな。」
「東の風は、お前の眼で読んでくれ。特に、武田の間者がどこまで入り込んでいるか、細かく探ってく
れ」
「御意。地の利、人の動き、すべて殿の耳にお届けいたします」
佑才は静かにうなずき、即座に姿を消した。
彼の足音一つ立てぬ動きは、すでに任務に取りかかっていることを示していた。
次に、秀吉は声を張り上げた。
「利家!慶次!いるか!」 間もなく、襖の向こうから豪快な足音が響き、前田利家と、その甥である前
田慶次が姿を現した。
慶次はまだ若く、派手な装いを好む性分だが、その瞳の奥には並々ならぬ才気が宿っていた。
「おう、殿。お呼びでござるか」利家が朗らかに声を出す。
慶次が扇子を片手に、にやりと笑う。
「何ですかな、殿。こんな年の初めから、厄介事を押し付けられそうな気がしてなりませんが?」
秀吉は二人に手招きし、座を促した。
「まさにその厄介事よ。これより浜松に参る。徳川殿への援軍だ」 利家が眉をひそめる。
「浜松へ……となると、今川攻めが本腰、ということになりますな」
「そうだ。その前に、お主らにひと働き頼みたい」 秀吉は慶次に目を向けた。
「慶次、お主の豪胆さは、京者には得難いものがある。」
「家康殿の前にて、その器量を見せてやるがよい」 慶次が扇子を閉じ、軽く叩く。
「ほう? 私の豪胆さ、でございますか。まさか、徳川の堅物どもを相手に、奇妙な舞でも披露しろ
と?」 利家が呆れたように言う。
「馬鹿を言え、慶次。殿の仰せは、もっと大事なことだ」 秀吉は静かに言葉を続けた。
「家康殿は、石橋を叩いて渡らぬ性質だ。」
「だが、我らの力を見せれば、必ずや本腰を入れる。慶次の才は、武だけでなく、人を惹きつける器量に
もある。徳川の重臣どもを相手に、その剛胆さで交渉の場を動かせ」 慶次が面白そうに目を輝かせた。
「なるほど。つまり、私の『武』と『才』で、徳川の腹を探り、我らの意図を明確に示せ、と。
これはまた、退屈せずに済みそうな旅路ですな!」 利家が短く「心得た」と答え、慶次もまた「ご期待
に応えましょうぞ」と胸を張った。その顔には、新たな戦働きへの期待が満ちていた。
秀吉はさらに言葉を重ねた。
「そして、もう一つ頼みがある。徳川家には、いまだ家康殿を支える古参の重臣が多いと聞く。」
「酒の席でも、茶の席でもよい。」
「彼らととことん語り合い、親交を深めてくれ。」
「特に、本多平八郎忠勝、榊原小平太康政といった、槍働きだけでなく、いまだ家康殿の傍らで意見具申
ができる者たちとの絆は、何よりも大切にせよ。」
利家が訝しげに尋ねた。
「なぜ、そこまででございますか?」 秀吉はにやりと笑った。
「家康殿は、家臣の意見が一つにまとまれば、それに従う律儀な御方だからな。
家臣団が我らの意を汲めば、家康殿も迷うことなく、今川討伐に本腰を入れてくれるだろう。
**本多平八郎、榊原小平太は、その武勇と忠義で、いずれ天下に名が轟く傑物と聞く。
**彼らの心が動けば、家康殿の決断も早まるというものだ。」 慶次が膝を打った。
「なるほど! 殿は、家康殿の腹を直接探るのではなく、家臣から固めてゆく、というわけですな。」
「面白い!」
その他の家臣や手勢は、犬山に残しておいた。
黒鋤隊を率い、兵糧や道具の手配――合流のための準備に専念させる。
「準備が整い次第、すぐに浜松へ向かわせよ。」
「道中の安全は、抜かりなく手配せよ」 秀吉は指示を伝える。
秀吉は、忍び頭と前田の二人のみを連れ、犬山を発ち、浜松への道へと馬を進めた。
冷えた風のなか、彼の背筋は自然と伸びる。
(東への道は、信長様の上洛の道を拓く為の抑え。ここからが、本当の正念場だ)
遠くで黒鋤隊の足音が追いつく日を思い描きながら、彼の瞳は、すでに次の戦を見据えていた。
徳川家臣団の“心”に火を灯す――これが、秀吉の真の狙いだった。
家康を説得するのではなく、本多忠勝・榊原康政らを通じて、家康の内から決意を引き出す。
このような心理操作ともいえる戦略は、後の「石田三成との対比」にも通じる、秀吉の真骨頂だ。
そして若き慶次の登場により、「才気ある異端」が天下の舞台へと踊り出す準備が整いつつある。
浜松への道は、上洛を実現する鍵を握る“精神戦”の始まりでもあった。




