第37章 長島輪中死に返り
歴史は変えられるのか?
たとえ未来を知る者であっても、それが“集団の空気”と衝突した時、なお通じるのか――。
今回、秀吉は長島の輪中に乗り込み、死に戻りを繰り返しながら悲劇を止めようと試みます。だがそこに立ちはだかるのは、信仰と空気に支配された強固な“集団意識”。
策を尽くしても、情に訴えても、何も変わらない世界。
本章は、「未来知識さえ通用しないもの」の象徴としての“空気”を描きます。
(1564年6月)長島輪中
三重の堤防と湿った土、泥の匂いにまみれた輪中の村。
夜の川面を滑る舟の音だけが静かに響く。
秀吉は舟を降り、長島の寺にひとり足を踏み入れた。
彼の心臓は、これから起こるであろう事態への予感で、静かに、しかし激しく鳴っていた。
◆ 一度目の死 薄暗い堂内。
門徒の代表の一人、老僧の顔は深い皺に埋もれている。
秀吉は正面から切り出した。
「これ以上籠もっても、堤が抜ければみんな泥の中だ。」
「もう米も尽きる。女も子も、助けたいなら今が潮時だ。信長公は情け容赦がない。」
「あんたの覚悟が本物なら、せめて子供と婆だけでも逃がせ。」 当主は渇いた声で言う。
「信長の犬風情が、何をぬかすか。ここで死ぬのが仏の道――それが門徒の定めじゃ。」
周囲の僧侶、若い門徒がざわめく。
「裏切り者め」「家族を捨てるのか」重苦しい「空気」が堂内に満ちた。
誰もが「仏の道」という、目に見えない絶対的な規範に縛られている。
老当主の目にほんの一瞬、迷いの色が走った。
それは、家族を救いたいという「個」の感情と、「仏の道」という「空気」の間で揺れる葛藤だった。
しかし老当主といえ部下達全ての”空気”を押しのけて秀吉の提案に乗るわけには行かないことは無言の老
当主を見ただけで理解できた。
――だがその瞬間。血走った目の若者が立ち上がり、秀吉に食ってかかる。
「外道が! 信長に通じた罰だ!」叫びざま、短刀を突き立てられた。
鈍い痛みと共に、秀吉は暗闇に沈んでいった。
意識が遠のく中、彼の脳裏には、この悲劇が繰り返されることへの絶望がよぎった。
若者の怒りは、彼個人の感情だけでなく、「信長=外道」「仏の道=正しい」という、門徒全体に共有さ
れた「空気」の現れだった。
その「空気」が、個人の判断を凌駕し、秀吉という「異物」を排除する方向へと作用したのだ。
意識が薄れる刹那、脳裏に声が響いた。
「抗うな。これは『遺伝子進化圧』。個の理は、集団の『物語』には勝てぬ」
◆ 二度目の死 再び最初に戻る。
今回は情報を握った門徒の副頭領を密かに囲い込んだ。
「助かりたければ、家族ごと密かに逃げろ。裏口は押さえてある。」
「子供が死ぬより、お前自身が生き延びてこの土地でやり直せ。」
副頭領は顔をしかめ、しぶしぶ了承した。彼の心には、家族を救いたいという理性が働いた。
――だが、その夜。
副頭領の動きが漏れ、門徒内部で裏切り者狩りが始まった。
「信長の狗が混じっている!」という怒号と悲鳴が響き渡る。
門徒衆の間に、「裏切り者」への憎悪という「空気」が、まるで伝染病のように瞬く間に広がり、群衆を
狂気に駆り立てた。
怒りに駆られた群衆に囲まれ、秀吉は槍で突かれ倒れた。
血の匂いと、泥の冷たさ。
「どちらにつくか迷えば、必ず地獄を見る……」死の間際、秀吉はそう思った。
個人の思惑が、「空気」という見えない集団の圧力によって容易に押し潰されることを痛感したのだ。
この絶望的な繰り返しの中で、彼の心は削り取られていくようだった。
「真実は暴力だ。お前が正しいと信じる『理』は、彼らの『物語』
を破壊する。だから排除される」声が嘲笑うように響いた。
◆ 三度目の死 再び時が巻き戻る。
今度は、包囲軍側の間者に門徒側の分裂を煽らせる。
「裏で寺の僧侶が逃げ道を用意している」と嘘の噂を流し、混乱を誘う。
門徒衆の心に疑念の「空気」を植え付けようと試みたのだ。
夜中、村の裏門が開く。
秀吉は手勢を率いて突入するが、待ち構えていたのは逆に武装した門徒衆だった。
「策に溺れたか、木下」冷たい声が背後から響き、槍の一撃が背を貫く。
門徒衆の「空気」は、秀吉の策をも見抜き、彼を罠にかけるほどに硬質だった。
泥と血が混ざる感触だけが、いつまでも体に残った。
その痛みは、彼の無力感を、より深く刻み込んだ。
「IQの問題だ。彼らは理解しない。理解できないのだ。お前の知は、この『空気』の前では無力だ」
声は、冷徹に告げた。
◆ 何度やり直しても 人は恐怖と利得の間で揺れ、宗教の旗は、時に家族や命より重くなる。
秀吉がどれほど策を尽くしても、「裏切り」「疑念」「逃げ道の消滅」といった「空気」が必ず生じ、ど
の筋道も正史の“悲劇”に吸い寄せられる。
それは、長島という地の「空気」、すなわち「仏の道」に殉じるという門徒衆の集合意識が、個人の理性
や秀吉の未来知識をも上回るほどの強固な力として存在していることを示していた。
◆ 四度目――諦め、傍観 次に目覚めた時、秀吉はもう策も言葉も尽きていた。
彼の心は、乾ききった大地のように、何も生み出せなくなっていた。
(――もう、何をやっても流れは変わらぬ) 川の外から、三ヶ月に及ぶ包囲と、村に渦巻く絶望と、堤
が崩れる音――炎に包まれた夜、遠く鐘の音が流れた。
子供の泣き声、母の叫び、僧侶の絶叫。
そして、すべてを呑み込む静けさ。
歴史の修正力。
人間の「生きる」「守る」「信じる」その執念と矛盾。長島の「空気」は、あまりにも強固で、秀吉の理
想をことごとく打ち砕いた。
秀吉(健一)はただ拳を握りしめ、闇の向こうで目を閉じていた。
その拳には、救えなかった命への後悔と、自らの無力感に対する怒りが込められていた。
いかがでしたか?
長島の門徒衆との対話は、戦国時代というより現代の集団心理の闇を映す鏡かもしれません。
「信長=外道」「仏の道=正義」という枠組みの中で、個人の理性が沈んでいく様は、まさに“空気”が生む絶望そのもの。
秀吉が感じた敗北は、戦での失敗ではなく、“信念を持った人々を救えなかった”という精神の挫折です。
この経験は、後の彼の生き方や戦略、民政に必ず影を落とすことになるでしょう。
そして次章では、その影を抱えたまま、彼がどのように「修正力」と向き合っていくのかを描いていきます。




