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第30章 梅雨の兆しと未来知識

文明が芽吹くと、必ず“壁”が立ちはだかる。

本章は、順調に進むかに見えた開発の中に、不安定な自然と人間の“慣性”が介入する苦い章です。

カルガモ農法の失敗、中干しの拒否、そして田の水管理の限界――未来の知識があっても、それが**現実に根付くまでの“時間”と“摩擦”**が必要なのだという事実を、藤吉郎自身が噛みしめます。

この章は、彼の「農政家」としての第一の敗北であり、同時に「土着的知恵」との対話の始まりでもあります。

(1563年6月)犬山


六月、犬山の空は早くも重たい雲に覆われ始めていた。


木曽川を渡る風も湿り気を帯び、時折、南の空から黒い雲が湧き上がる。


田んぼの水面には、まだ植えたばかりの苗が、やわらかな風に揺れながらも、しっかりと根を下ろし始め


ていた。


藤吉郎は山裾の新しい里を歩いていた。


薬草園の若葉は露に濡れ、桑畑の葉は青々と繁り始めている。


伊賀者の里では、二階建ての家々の軒先に絹糸を吐く蚕の姿も見えはじめる。


寂光院の林では、修験者たちがシイタケの原木を点検しながら、夏の訪れに備えて静かに祈りを捧げていた。


しかし、心安らぐ季節はそう長くは続かない。


戦国の空気は、季節の移ろい以上に速く変わる。


美濃の情勢、尾張の動き、そして信長の野心――藤吉郎のもとには、各地から忍びや使者が絶え間なく情


報を運んでいた。


彼の胸には、迫り来る時代の荒波への、かすかな予感が募っていた。


「さて、夏を越すには新しい策が要る。」


空を見上げると、雲の切れ間から一筋の陽が田んぼと村を照らした。


その光に導かれるように、藤吉郎は再び前を向いた。


七月のある朝、村の子どもたちがいつもより静かに田んぼの畦道を歩いていた。


今年の春、藤吉郎の提案で初めて導入された“カルガモ農法”――田に子ガモを放し、雑草や虫を食べさせ


る試みは、期待と共に始まったものだった。


だが、田の水を覗き込むたび、子どもたちの顔が曇っていく。


「……みんな、いなくなっちゃった。」


藤吉郎が畦道に立つと、子ガモの姿は一羽も見えなかった。


数日前から、ヒルに血を吸われた子ガモたちが次々と弱り、とうとう全滅してしまったのだ。


田の隅に残るのは、子どもたちの小さな悲しみの声だけだった。


藤吉郎は、現場を見渡しながら、ため池式水田の水管理の難しさを思い知った。


中干し――田の水を一時的に抜き、土を乾かすことで稲の根を強くする農法を村に呼びかけたが、農民た


ちからは強い反対にあった。


「水を抜いたら、稲が枯れてしまう!」


「今までのやり方を変えるのは怖い!」


誰もが口を揃えた。藤吉郎も説明を尽くしたが、ため池から水を落とす作業自体に時間がかかりすぎ、肝


心のタイミングを逃してしまうことも分かった。


現場の構造が変わらない限り、田の水を思うようにコントロールするのは難しい――これが村の現実だった。


ただ一つ、村の皆が協力してくれたのは追い肥だった。


水田の畔に立ち、皆で手分けして肥料を撒く。


これだけは、いつも通りの“手間”で済む。


藤吉郎も黙って畦に立ち、桶から肥をすくって、田に撒いた。


水面には波紋が広がるだけで、村人たちは何も言わずに作業を続けていた。


その光景は、彼自身の無力感と、それでもできることを模索する姿を映し出すようだった。


遠い空には入道雲が広がっている。


新しい知恵も、土地と人の現実に馴染むには、まだまだ遠い――そんな夏の苦さが田んぼに静かに漂っていた。

現実の地形、信仰、生活――それらが“現代知識”に対して牙をむいたとき、真に問われるのは「信頼と実行の順序」です。

この章で藤吉郎は、知識の限界と住民の抵抗に直面しつつも、「それでも一歩進める」覚悟を見せました。

子ガモが消えた水田の風景は、そのまま彼の理想と現実の乖離を象徴しています。

農村の改革とは、収穫高ではなく、信頼の積み上げによって測られるのかもしれません。



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