第2章 雪斎との邂逅
駿府の善得寺に通い始めた日吉丸。
戦国の知の巨人・太原雪斎との出会いは、彼に「統治と秩序」の本質を突きつける。
だが、その“鋭さ”はこの時代にとっては異質すぎた──
命を賭けた問答の行方とは。
善得寺に通う日々が続いた。
書庫に眠る書物は、見慣れぬ漢文ばかり。
正直、難解極まりない。だが、かつて健一として理系の世界で論理を組み立てていた経験が、ここで思わ
ぬかたちで役立っていた。
「……この“於レ是”が時の転換点で、“為ニ”が目的語か……いや、これは連結詞かもしれん……」
ひとつひとつの文字を数式のように捉え、仮説を立てて検証する。
その繰り返しで、わずかずつではあるが着実に読解力を深めていく。
そしてある日、彼は『今川仮名目録』と出会った。
(……これは単なる法令集ではない。幕府の権威を離れ、独自の統治理念を打ち立てようとする、いわ
ば“独立宣言”ではないのか)
読み進めるうちに、彼の中で理論の糸が繋がっていく。
旧来の権力構造が形骸化するなか、雪斎という知の巨人が構築した「地方秩序」の試み。それは、明らか
に意図された政治思想の表明だった。
その日の講義で、雪斎自らが仮名目録の解説を行っていた。日吉丸は、つい衝動的に手を挙げた。
「仮名目録の第六条、“徳政令の施行”は確かに領民救済の意志を示しております。
しかしながら、発布のたびに貨幣の信用は損なわれ、流通の停滞を招く恐れがあるのではありません
か?」
講堂内がざわめいた。身分不詳の小僧が、名僧に対し理屈をもって問答を挑むなど、異例であった。
だが日吉丸はさらに踏み込んだ。他の条文にも言及し、ついには仮名目録の根幹――幕府体制からの思想
的自立――に触れる。
静寂が満ちていく。空気が重く冷たくなり、まるで堂内全体が言葉を呑み込んだかのようだった。
だが雪斎は、ゆっくりと頷いた。
「面白い。……名を、名を名乗れ」
「日吉丸と申します」
「よい問いだ、日吉丸。確かに徳政の乱発は信用を削ぐ。」
「だが、あえて文に記すのは、為政者の覚悟と戒めを残すため。」
「目録とは、理想を綴るだけのものではない。自らを律する書でもあるのだ」
その夜、日吉丸は竹林の帰路にて不意を突かれ、数人の侍により何の言葉もなく切り捨てられた。
白装束の僧が深夜、その亡骸のそばに現れ、何事かを呟いた後、共に姿を消した。
彼の意識は闇に沈む。その刹那、脳裏に声が響いた。
「これが『修正力』。定められた流れに抗うなら、代償を払いやり直すのだ。お前は『異物』なのだ」
――そして、彼は再び、講義の朝に戻っていた。
これは夢ではない。確かに“殺された”感触は、記憶として彼の中に刻まれていた。
今度の日吉丸は、あえて口を開かなかった。ただ仮名目録の徳政条項を朗読し、その理念の|崇高《すう
こう》さを称えた。
雪斎は微笑み、静かに言った。
「よい読みだ。時に語り、時に沈黙することもまた、学びのうちよ」
このとき、日吉丸――坂村健一は悟った。
現代日本でも“空気を読む”ことは重んじられていたが、ここ戦国の世では、それが人の命をも左右する決
定的な力を持つということを。
一度目の死は、身分の卑しさだけが理由ではなかった。あまりに鋭い知見が、当時の“空気”に逆らう異物
として周囲に圧力を生み、排除の力を働かせたのだ。
知識や論理が、常に正義とは限らない。
「……そうか、これがこの国の“空気”か」
生き延びるには、ただ正しいことを語るだけでは足りぬ。
空気を読み、それに寄り添い、ときに交わりながら、突破口を探る必要があるのだ。
日吉丸はそう心に刻んだ。
これは単なる学問の習得ではない。
生き抜くための、“処世の知”そのものであった。
ご覧いただきありがとうございます。
今回は、日吉丸がついに善得寺で雪斎と出会い、「知によって秩序を読み解こうとする第一歩」を踏み出しました。
核心は、仮名目録=今川法に対する彼の問題提起です。
実はこの仮名目録、史実では極めて先進的な内容で、「領主権力と幕府権威を分離しようとした地方独立憲章」とも言えるものでした。
日吉丸がそれを“思想”として理解したことで、彼が単なる知識持ちではなく、「理念を読もうとする者」へと変化していく布石になっています。
そしてもう一つの山場が、彼が問答の直後に殺される→同じ日に戻るという初の「転生サイクル」です。
ここで提示されたのは、「正しさが命を救わない時代」であり、「空気を読むことが生存条件になる」という事実です。
次回からは、知と命を秤にかけながら、彼の“処世としての学び”が始まります。
「学び舎」での成長物語をどうぞお楽しみに!