第28章 隠れ里
1563年春――。
藤吉郎は犬山の地に、戦国という時代の枠を超えた“新しい国づくり”の萌芽を植え付けようとしていた。
本章では、前章で整えられた「武」「影」「財」の基盤を土台に、彼が「生産」「生活」「防衛」「技術」の各要素を組み合わせ、まるで小さな“未来国家”を築いていく姿が描かれます。
養蚕と絹、薬草と医療、キノコと栄養、鉱石とセメント、そして糞尿と硝石――あらゆる“無駄”を資源に変え、経済と軍事の融合的インフラが静かに築かれていきます。
本章は、「農村革命」と「軍事近代化」が交錯する、藤吉郎ならではの視座を存分に感じていただける一篇です。
(1563年4月)犬山
春の訪れとともに、犬山の山河は静かにその姿を変え始めていた。
藤吉郎は、墨俣で蓄えた資金と、そこから共に来てくれた者たちを頼りに、次なる布石に取りかかってい
た。彼が求めたのは、ただの防衛拠点ではない。
「人が生き、技が生まれ、やがて力となる里」
そしてそれは、密やかに、しかし確かに形をなし始めていた。
まず動いたのは、墨俣で一度成功を収めた水車の再建だった。
鍛冶師には「前と同じ金具を」、大工や木地師には「型は前のままで頼む」と注文を出す。
職人たちは初めてのときよりも段取り良く、慣れた手つきで作業に入った。水車の仕組みはもはや彼らの
手に馴染んでいる。
木曽川の北の山の南斜面では、新たな営みが始まる。
藤吉郎は信頼できる若者たちや修験者と共に、薬草園を作る計画を進めていた。
春の光が差し込む斜面に鍬が入り、古老が薬草の苗を一つ一つ手渡していく。
ヨモギやドクダミ、キキョウなど、様々な苗が柔らかな土に植えられ、湧き水を引いた灌漑の溝がやがて
薬草の根を潤した。
一方、継鹿尾山の寂光院を拠点に、伊賀者の“影の里”づくりも着々と進行する。
山の南斜面には桑の苗が並び、家々は二階建てにして、上階では蚕の棚が並ぶ。
「蚕は湿気を嫌う。二階で飼えば風通しも良いし、誰かが覗きに来ても目立たぬ。」
伊賀の女たちが手際よく桑の葉を摘み、蚕の世話を始めていた。
寂光院の裏手では、修験者たちが春を待ちわびて原木を運び入れ、
「シイタケの種駒を打つには、この時期が一番良い」
と静かに言いながら、一つずつ丁寧に菌を打ち込んでいく。
山の空気には木と土、そして生まれたばかりのキノコの気配が満ちていた。
その向かいの山では、石灰岩を掘り出す作業が始まった。
セメント鉱石を掘り、牛車と人力で木曽川の水車場まで運ぶ。
水車は勢いよく回り、鉱石は白い粉になって積み上げられていく。村人たちはその様子を興味深く眺め、
職人たちの誇りと汗が、里の新しい息吹となっていた。
最も厳重に管理されたのは硝石丘法だった。
桑や蚕の糞、人糞や藁、尿を交互に積み重ね、木造の小屋で発酵させる。
「この里の一切が、やがて火薬のもとになる。外の者には決して見せるな。」
伊賀の頭領は厳命し、若者たちは交代で小屋を見張る。
修験者たちも不審者が入り込まぬよう山道を見守った。
こうして犬山の山裾には、桑畑と二階建ての家々、蚕の棚、薬草園、シイタケの原木、鉱山、そして秘密
の硝石小屋――まるで一夜にして現れたかのように、新たな営みが静かに広がっていった。
だが、すべてを動かすために使った資金は、藤吉郎の手元で静かに目減りしていく。
職人の賃金、苗や資材の調達、伊賀者や修験者への礼、鉱山の人足――帳面に並ぶ数字は日ごとに小さく
なり、とうとう指折り数えるほどになっていた。
春の終わり、藤吉郎は仮住まいの奥で帳面を開く。
「桑苗、七十束、銀三貫目。鉱山の人足、六人、賃金二十四文。大工・木地師、前回と同じで五貫……」
彼はそっと懐から財布を取り出し、袋の口を握って振ってみる。チャリン、と乾いた音。
重かったはずの袋は今や、手のひらで踊るほど軽い。
「数字で見ても、手触りで感じても――これが現実か。」
だが、その目には後悔はなかった。財布は軽いが、手に入れたものは多い。
回り始めた水車、根付いた桑、蚕と絹、シイタケの原木、薬草園、火薬となる硝石の小屋、そして支える
人々の絆。
彼の心には、確かな手応えと、未来への静かな熱意が宿っていた。
「残りは、育てて増やすしかないな。…ここからが本当の勝負だ。」
藤吉郎は立ち上がり、外へ出る。
春の陽射しが村全体を柔らかく包む。
田んぼには水が引き入れられ、試験的に始めたばかりの水田には、正条植えに並んだ苗が美しく風に揺れ
ている。
田んぼの形も、従来のいびつな形ではなく、長方形のマス型にきれいに区切られていた。
まっすぐに整列した苗の列と、四角く整った水面――その景色は、戦国の村にはまだどこにもない、未来
の規律だった。
藤吉郎はしばし足を止め、その光景を眺めた。
現代で見慣れていた田植えの風景――等間隔に並ぶ緑の苗
と、長方形の田んぼの規則正しさが、遠い記憶の底から鮮やかによみがえる。
村のどこかから、子どもたちの笑い声が響いた。
山の風が、田んぼの水面をやさしく撫でていく。
新しい季節と新しい村が、今ここから始まろうとして
本章は、単なる城下整備ではなく、「時間と資源と人材」を戦略的に配置し直す、転生者・藤吉郎のビジョン構築編とも言える内容でした。
正条植えによる稲作の効率化、二階建てによる養蚕の気候制御、菌床によるシイタケ栽培、そして硝石製造と軍需体制。
どれも“未来の知識”によって根拠づけられ、しかもそれを支える“人の信頼”と“現実的な地に足のついた行政力”が基盤になっています。
そして彼の財布が軽くなる描写は、「国家運営は予算と信用で回る」という冷厳な現実を象徴しつつ、それでもなお彼が**“損して得を取る”未来志向の行動者**であることを浮き彫りにします。
次章からは、ここで蓄積された生産力と情報網が、実戦にどう転用されていくのか。その「リターンの回収編」が始まります。




