第25章 信長の無血開城と新たな秩序
一滴の血も流さず、国を取る――それは力による征服とは異なる、真の支配である。
墨俣の勝利に続き、信長はいよいよ美濃の中心・岐阜城へと向かう。
斎藤家の内紛、指揮系統の崩壊、そして民心の離反……すべては、戦う前に決まっていた。
本章では、「無血開城」という歴史的転換点を描きながら、戦後の秩序再建と藤吉郎の新たな任地・犬山城への移転、そして織田家中枢への登用という大きな変化を描いていきます。
戦いの先にあるもの――それは、破壊ではなく「再生」である。
(1562年八月)
信長の進軍と斎藤家の決断。
8月半ば、墨俣を包囲してひと月半。
この時期、野営中の斎藤家にとっては8月の猛暑は更なる負荷を掛け、疲労と厭戦気分が最高潮に達した。
斎藤軍の兵士たちは戦う気力が限界に達していた。
連日の嫌がらせの攻撃や長期の包囲に疲れ果て、その上、佐久間隊の補給隊に対するゲリラ攻撃により、広い戦線を維持するための長時間の警戒。
補給隊が襲われて満足に配られない食事。
兵士たちの中には体調を崩す者が続出した。
陽光が照りつける中で、精神的にも肉体的にも限界を迎えつつあった。
8月末頃には犬山城が陥落したという知らせが両軍に届き、信長が着実に戦力を拡大していることが明らかとなった。
この知らせは、斎藤家の士気を一層低下させ、状況はますます不利に進んでいった。
藤吉郎は信長に対して余裕を持って墨俣の状況を報告し、調略が着々と進行していることを伝えた。
信長の兵力がいつでもこちらに向かうことが出来る事を知ることになった。さらに斎藤家の不安は増していく。
龍興は、不安と焦りの中で自らの指揮が揺らぎ始めていることを痛感し、退却を決断せざるを得なくなった。しかし、判断が遅すぎた。
すでに士気が低下し、兵士たちの足取りは重く、遅々として進まない。
特に、農民や非戦闘員を多数抱えているため、撤退のスピードも極めて遅く、状況は次第に悪化していった。
9月25日、一ヶ月間も焦らされた上で信長本体が岐阜城に進軍を開始したとの報せが斎藤家に届く。
一ヶ月前に犬山城の陥落という知らせが斎藤家に届いた時には、動揺が広がっただけだったが本隊が岐阜城に動き出したという事態は斎藤家の分裂が急速に悪化していった。
信長の圧倒的な戦力と、次々と進軍を始める報告は、斎藤家の軍に大きな動揺をもたらすこととなった。
その頃、岐阜城では島田秀満との間に、龍興は深刻な対立を抱え、最終的にはその怒りをぶつけてしまう。
島田を殺すという、斎藤家内での信頼関係が完全に崩れる決定的な出来事が起きた。
斎藤家内での不安定な空気はさらに高まり、指揮系統は完全に崩壊していった。
斎藤家の最期と信長の勝利。
信長の進軍が続く中、岐阜城にたどり着いた頃には斎藤家の兵力は1500を切っていた。
そして島田秀満が手打ちになると知ると兵は関を切るように散って行った。
戦闘する前にその力を失っているのだ。
龍興は最後まで状況を見極めることができず、さらに心の中での決断を続けることに疲れ果てていた。
岐阜城の斎藤家の力は完全に失っていった。
信長が岐阜城を包囲した段階で、残っていた兵士たちはほぼゼロ。
無血占領の形で斎藤家は事実上敗北を喫したのだった。
この戦争の結果、信長は岐阜と尾張を完全に支配した。
石高110万石となり中部から近畿の戦局の主導権を完全に握ることとなった。
藤吉郎の巧妙な計略と調略が功を奏し、斎藤家内の分裂が決定的な敗北を生んだ。
信長は戦局を冷静に進め、最小限の損失で戦を終結させ、次の戦へと進んでいった。
兵力の損失は犬山城攻略時の僅かなもので終わったことで更なる飛躍への道がひらけているのであった。
戦後処理――新たな秩序と藤吉郎の転機。 岐阜城が無血で開城され、斎藤家が滅亡すると、戦乱に揺れた美濃の地にも新たな秩序の構築が始まった。
信長はまず、墨俣を直轄領と定め、自らの支配権を強く印象付けた。
長年の要衝であるこの地を家臣には預けず、織田家の軍事・流通の拠点として徹底管理することを命じた。
これにより、藤吉郎が丹精込めて守り抜いた墨俣の砦も、信長の命によって織田家直轄となる。
一方、藤吉郎は大役を果たした褒美として、犬山城を与えられる。農地・町・物流を総覧し、戦後の復興と治安維持、財政の立て直しに尽力することとなった。
だが、墨俣からは離れ、犬山へと拠点を移すことになった藤吉郎は、一抹の寂しさを覚えつつも、さらに大きな役割を与えられたことに武士としての成長と飛躍を自覚していた。
それは、彼の理想とする「全ての人が報われる道」への、確かな一歩でもあった。
同時に、信長は藤吉郎を直参の家老として本陣へ召し戻す。
現地での民政・軍政の采配を終えたのち、藤吉郎は織田家中枢の一員として、次なる大戦略に携わることとなる。
墨俣では、信長の新たな命令によって旧斎藤家臣や避難していた農民たちに恩赦が与えられ、再び村へ戻ることが許された。
町人や商人たちも市場の復興に動き出し、河川の物流も蜂須賀小六らの指揮で徐々に平穏を取り戻していく。
徴発されていた米や麦、資材も各村に分配され、民の生活も徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
こうして、戦乱とともに始まった藤吉郎の墨俣の物語は、信長の直轄領として新たな歴史に引き継がれ、藤吉郎自身も織田家の中核へと大きく歩を進めることとなったのである。
戦国の戦は、刀の勝負では終わらない。
藤吉郎が演出した“勝たずして勝つ”戦略の終着点が、この無血開城でした。
武力を使わずに落ちた岐阜城。かつての要地・墨俣は信長の直轄領となり、藤吉郎は犬山へ――。
信長の信任、軍政と民政の手腕、そして民からの支持。
これらが一つに結びついた時、藤吉郎はもはや一介の「百姓上がり」ではなく、天下の構想を担う“戦略家”となります。
次章からは、信長の西進と、藤吉郎の「国造り」が本格化してゆくことになります。




