第24章 水と歌の城
「戦は、兵だけがするものではない」
墨俣の籠城戦は、単なる防御ではない。農民も、商人も、職人も、家族も――すべてを巻き込んだ“国家総動員体制”の幕が上がる。
本章では、藤吉郎が築いた社会システムとしての籠城戦を描きます。
戦場の裏に流れる生活と物流、そして「戦わずして勝つ」調略と心理戦の妙。
そのすべてが、斎藤家の崩壊という一大劇を生み出していく。
“人を討たずして家を倒す”、戦国知略の真髄をどうぞ。
墨俣の籠城:血と汗と、そして人の絆
時: 永禄五年(1562年)7月初旬
場所: 墨俣城内、本丸評定の間
夜風がわずかに窓から吹き込む評定の間。
ろうそくの炎が揺れ、壁に武将たちの影が大きく伸びている。藤吉郎は、冷静
な眼差しで皆を見渡す。
藤吉郎: 「斎藤の奴らが墨俣を取り囲んで、もうひと月になる。だが、本格的な
攻め入りの気配はまだないな。」
蜂須賀小六: 「ええ、旦那様。連日の嫌がらせのような小競り合いばかりで、大
した損害も出ておりやせん。だが、油断はできねぇ。」
藤吉郎: 「うむ。しかし、この籠城は我らの思惑通りに進んでおる。農民、商人、
職人、そしてその家族まで、墨俣全体がこの戦を支えてくれておるのだからな。」
小六が深く頷く。
小六: 「まったくでございます。農民衆は物資を運び、壊れた柵を直す。商人衆
は銭の心配なく物資を供給し、職人衆は夜なべで弓矢や武器をこしらえてくれ
る。特にわしが川筋に作った物流網のおかげで、食料も水も滞りなく入ってき
ております。」
藤吉郎: 「その通りだ、小六。この墨俣の民の団結こそが、我らの最大の武器よ。
斎藤の兵が野営で苦しむ中、城内では皆、腹いっぱい食い、水浴びまで楽しん
でおる。つい先日も、盆踊りの音が夜空に響き渡ったとか。」
評定の間に、かすかな笑い声が漏れる。
調略の暗流:斎藤家の内なる崩壊
時: 永禄五年(1562年)8月初旬
場所: 墨俣城内、藤吉郎の私室
静かな私室で、藤吉郎が地図を広げ、その隣には半兵衛が控えている。
藤吉郎: 「半兵衛、西美濃の地侍衆への調略の進捗はいかがか?」
竹中半兵衛: 「滞りなく進んでおります、殿。特に西美濃三人衆には、後方に残
るご家族を通じて揺さぶりをかけております。当主が前線に釘付けにされてい
る間に、心許ない家族の元へ、斎藤家への不信の種を蒔いておりますれば、彼
らの心は揺れ動いております。」
藤吉郎は満足そうに頷く。
藤吉郎: 「さすがは半兵衛。当主を動かすには、その心を揺さぶるのが一番だ。
そして、長井道利には謀反の噂を流布させ、島田秀満には商人を使って露骨に
賄賂攻めを仕掛けさせておるな?」
半兵衛: 「はい。龍興様の周囲に疑念の種を蒔き、斎藤家中の不信
感を蔓延させることに成功いたしました。指揮系統はすでに不安定にございま
す。」
「例の書付、龍興に渡るようにしてります。」
藤吉郎: 「うむ。斎藤の兵士は疲弊しきっておる。この暑さの中、まともな食事
も与えられず、夜には佐久間隊のゲリラに怯える日々。それに引き換え、我ら
は城中で涼み、腹を満たし、笛の音を聞いておる。戦わずして勝つ、これが人
の世を守るための戦よ。」
斎藤家の絶望:迫りくる信長の影
時: 永禄五年(1562年)9月上旬
場所: 斎藤軍本陣、龍興の天幕
暑さで蒸し返る天幕の中、龍興は苛立ちを隠せない様子で座り込んでいる。
その表情には、疲労と焦燥が色濃く浮かぶ。
斎藤龍興: 「(苛立ちながら)墨俣のあの小僧め!いつまで持ちこたえるつもり
だ!この暑さで兵は疲弊しきっておる!それに佐久間のゲリラめ、補給部隊ば
かりを狙いおって!」
近習の一人が恐る恐る口を開く。
近習: 「は、はっ。さらに、犬山城が織田に落ちたとの報が…。」
龍興の顔色が一層悪くなる。その報は、斎藤軍全体の士気をさらに削ぐものだった。
龍興: 「なに!?あの信長め、この好機を逃さんとばかりに…!」
その時、早馬が飛び込んできた。
早馬の兵: 「申し上げます!信長本隊、岐阜城に向け進軍を開始した模様!」
龍興は、その場で凍り付いたように立ち尽くす。
龍興: 「(震える声で)信長が…動いただと…!?」
斎藤家の末路:疑心と破滅の刃
時: 永禄五年(1562年)9月下旬
場所: 岐阜城内、評定の間。昼日中だというのに、妙に薄暗い。
評定の間には、重苦しい空気が淀んでいた。長引く墨俣の攻防、織田信長の進
軍、そして城内に渦巻く不信感。斎藤龍興は上座で腕を組み、額には深い皺が
刻まれている。その視線は、評定の間に集まった家臣たちを疑わしげに探っていた。
斎藤龍興: 「(低い声で)犬山城が落ち、信長の本隊が動いた。この状況で、い
まだ墨俣一つ落とせぬとは、何たる失態か!」
家臣たちは顔を見合わせるが、誰も口を開こうとしない。龍興の苛立ちが募っ
ていく。
龍興: 「(声を荒げて)皆、なぜ黙しておる!何か策はないのか!それとも、こ
の龍興に隠し事でもあるまいな!?」
その時、一人の家臣が恐る恐る進み出た。彼の手に握られているのは、一枚の
薄汚れた紙切れだった。
可児才蔵: 「は、はっ。龍興様。実は、城下の商人より、このようなものが届け
られまして…。」
長井道利は震える手で、その紙を龍興の前に差し出した。龍興が怪訝な顔でそ
れを受け取り、広げて目を通す。そこには、乱れた筆跡でこう書かれていた。
怪文書: 「斎藤家、内より崩れん。島田秀満、織田と密通し、主家を売り渡さん
と画策。その証拠、金銭の動きにあり。」
龍興の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。その目は、すぐさま島田
秀満に向けられた。秀満は、突然突きつけられた怪文書に顔色を変え、必死に
弁明しようとする。
島田秀満: 「滅相もございません、龍興様!それは織田の流したデマにございま
す!わたくしはただ、城下の混乱を収めるべく、商人衆と交渉を…」
龍興: 「黙れっ!」
龍興は、立ち上がって秀満に詰め寄った。その顔は怒りで赤く染まり、理性の
かけらも感じられない。
龍興: 「交渉だと申すか!貴様、わしに無断で、己の独断で商人どもと接触し、
織田への賄賂の口利きまでしておったと聞くぞ!そのようなことを、なぜわし
に報告せぬ!?」
秀満は言葉に詰まる。彼の独立した動きが、怪文書の信憑性を高め、龍興の疑
心を決定的に募らせていたのだ。
島田秀満: 「そ、それは…!混乱を避けるため、やむを得ず…」
龍興: 「(激昂し、声が震える)混乱を避けるためだと!?貴様の勝手な行いが、
この斎藤家をどれほど混乱させているか、わからぬのか!貴様は、わしを裏切
り、斎藤家を内から食い破ろうとしているのだな!?」
龍興の目は、もはや正気ではなかった。長期間の心労と、次々と届く悪い報せ、
そして追い打ちをかけるように現れた怪文書が、彼の精神を蝕んでいたのだ。
家臣たちの間にも動揺が広がる。
長井道利: 「りゅ、龍興様、落ち着かれませ!」
しかし、龍興には彼らの声も届かない。彼は、憎しみに満ちた目で秀満を睨み
つけ、ゆっくりと腰の刀に手をかけた。
龍興: 「この裏切り者めが…!貴様のような者は、この世にあってはならぬ!」
島田秀満: 「ま、お待ちくださ…!」
秀満の言葉は途中で途切れた。龍興の抜刀は素早く、その刃は秀満の腹を貫い
た。血が畳に飛び散り、秀満は呻き声を上げながら崩れ落ちる。
評定の間は、一瞬にして静寂に包まれた。家臣たちは、恐れおののき、龍興の
暴挙にただ立ち尽くすばかりだった。
龍興: 「(荒い息を吐きながら、刀の血を払う)これこそが、裏切り者への報い
だ…。誰も、わしに逆らうことは許さぬ…。」
その言葉は、もはや恐怖と狂気に満ちていた。島田秀満の死は、斎藤家内部の
信頼関係を完全に破壊した。家臣たちは龍興への忠誠よりも、己の命の安全を
優先するようになり、指揮系統は完全に麻痺。斎藤家は、もはや内側から崩壊
していく他なかった。この日、斎藤家の滅びは、ほぼ確実なものとなったので
ある。
この章は、武力よりも“持久と調略”で勝利を得た物語でした。
藤吉郎が構築した国家的な籠城体制と、精神戦、補給戦、そして裏から仕掛けた情報戦――
それらの積み重ねが、斎藤家をじわじわと壊し、龍興を誤算と焦燥へ追い込んでいきました。
最後の一押しは、暑さと飢えと不信。つまり「戦わずして勝つ」ための舞台が、すべて整っていたということです。
戦国において“勝ち残る”とは、刀を振るうことではなく、人と仕組みをどう動かすかにかかっている。
――次章では、ついに岐阜城へ。
信長の進軍と藤吉郎の報恩が、戦の終わりと始まりを告げます。




