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第18章 動く口、黙る目

墨俣の砦が完成し、「百姓上がりの藤吉郎」が築いたその姿が、家中に波紋を広げはじめます。

この章では、築城という「成果」そのものよりも、それを見た者たちの「沈黙」が生み出す空気と圧力――言わば“秀吉の出自が生んだ社会的異物感”を軸に描いています。

また裏の功労者・蜂須賀小六の存在にも少し光を当て、藤吉郎の手腕の実態と空気のズレを対比させました。

(1561年2月) 墨俣砦


墨俣の砦が築かれてから早一月。


一夜にして完成したとまことしやかに囁かれるその砦は、もはや仮の陣営などではなく、まるで神々しい要塞のように威容を誇っていた。


信長様は、この前代未聞の偉業に、|()めるでもなく、かといって(とが)めるでもなく、ただ黙して見守るばかり。


その沈黙こそが、俺、藤吉郎にとって何よりも重い評価であり、背筋が伸びる思いだった。


「殿は、何も仰せにならぬのか?」と家臣たちに問われても、俺は苦笑いでかわすばかりだ。


「何も言わぬということは、“まだ値踏み中”ということよ。黙っている時が一番恐ろしいものなのだから」と。


しかし、この肌で感じるような重圧は、最前線で信長様の“空気”と向き合い続けてきた俺にしか分からない感覚だった。


尾張の家中では、不穏なざわめきが広がっていた。


「百姓上がりの藤吉郎が城を築いたらしいぞ」

「火矢も効かぬ砦だとか……」


「蜂須賀小六を使ったそうではないか。元は山賊の頭領だったはず」といった陰口が飛び交う。


だが、この砦づくりには、墨俣の川筋を誰よりも知り尽くした蜂須賀小六という影の功労者がいたことを、俺は知っていた。


俺は密かに小六に声をかけていた。


「城を建てるのではない。人が畏れるものを“見せる”のだ。川のことなら小六、お前の方が早い。舟も、人も、材木も、うまく回してくれ」


小六は快諾し、地元の人脈と裏仕事の要領を駆使して、夜間の材木運搬、川岸の偽装、見張り役の配置にまで手を回した。


表向きには俺の手柄だが、砦が“建った”のは小六の協力があってこそだった。


一方で、砦の完成と共に俺、藤吉郎の名は、ゆっくりと、だが確実に民衆の間に広まり始めていた。


「竹で盾を作った男」

「火矢が効かぬ砦を立てた奴」


「人の首の代わりに“指の跡”で手柄を記録するそうだ」


「蜂須賀の小六が黙って手を貸すのだから、ただの成り上がりではないな」


半兵衛は「お主、やることが早いな」と感嘆した。


俺は笑って返した。「早いのではない。“決めたら、すぐやるだけ”よ。兵は、速さを尊ぶものだ」


墨俣一夜城の築城は、秀吉、つまり俺の型破りな成功を象徴する出来事だった。


竹と泥だけの即席の砦が、わずか七日で本物の城塞へと変貌したことは、従来の築城の常識を覆したのだ。


この非常識な速さと合理性は、家臣たちの間で驚きと同時に、不穏な「空気」を生み出した。


「百姓上がりが城を築いたらしいぞ」


「火矢も通らぬとか……」


「蜂須賀小六を使ったそうだ。あれは元は山賊の頭領だろう?」


といった陰口は、俺の成功が彼らの理解を超えていることへの畏怖と、卑しい出自への根強い差別意識が混じり合ったものだった。


彼らの心の中では、「秩序」という見えない枠組みが揺らぎ始めていたのだ。


俺のような出自の者が、これほどの才覚を発揮し、常識を覆す成果を出すことは、彼らが長年信じてきた「家柄」「血統」「武功」といった価値観の根底を揺るがす「異物」の出現として認識された。


織田家ですら家臣達に信長の価値観とは別の旧来の価値観の中で生きていることがその”空気”によって痛いほど感じられた。


信長様がこの成果に沈黙していたことも、家臣たちの不安を一層煽った。彼らにとって、信長様の沈黙は「まだ値踏み中」という恐怖であり、この異質な成功が織田家にもたらす影響を測りかねていたのだ。


あたかも、俺の築城が単なる武功ではなく、既存の価値観を揺るがす「妖術」のようなものとして認識され始めた瞬間だった。


この「空気」は、誰もが口に出さないが、互いの視線や沈黙、あるいは微かな表情の変化によって共有される、一種の無言の合意形成だった。


それは、俺という「異物」を、社会の枠組みから「排除」しようとする本能的な動きの始まりでもあったのだ。


家臣たちの内心に渦巻く漠然とした不安と不快感は、やがて俺を「魔物」「妖」と見なし、目を合わせることすら避けるようになるという具体的な行動へと繋がっていく。


俺の成功は、彼らが「正しい」と信じてきた世界の均衡を崩し、その不安定さが「空気」となって、家中を不穏な感情で満たしていったのだ。

「成果が重ければ重いほど、“出自”は重しになる」。

秀吉=健一が初めて正面から“社会の異物”として認識される過程を、墨俣の築城を通して描きました。

味方の中に芽生える「沈黙の敵意」、目を合わせぬ者たち、それでも協力し続ける蜂須賀――この章では、空気の支配構造とその綻びを可視化しようとしています。

信長の沈黙もまた、ひとつの「声なき審判」として機能しており、今後の家中関係の変化への伏線ともなります。

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