第183章 最後の巡り
(1560年)尾張・熱田湊
潮の匂いが、風に乗って運ばれてくる。
帆柱が軋み、砂浜に波がほどけていく音。
見覚えのある景色――だが、空気が違う。
まるで音が半歩遅れて戻ってくるような、世界の縁がきしむ感覚があった。
「・・戻った、のか」 視界の端に、白装束の姿が立っていた。
顔は影に沈み、声だけが澄み切って届く。
十三度の死を繰り返すたび、耳の奥に焼き付いた響きだ。
「お前は、変えることを諦めかけた」
「巡りを栄光に費やし、やがて疲れた」
「だから、これが最後だ」 言葉は石のように重く、逃げ道を塞ぐ。
「次に死ねば、もう戻らぬ。永遠の死だ。覚えておけ」
「――竹中半兵衛も添えよう。支え合え。そして、楽にやれ」
(半兵衛・・ここで、その名が出るか)
「待て。お前は、何者だ」
「意思ではない。観測者だ。法則の縫い目に立つ情報体。進化がどちらへ曲がるか、確かめに来ただけの
者よ」 景色がきしみ、空気が反転する。
次の瞬間、舟板の匂いが、俺を現実へと引き戻した。
◆永禄三年五月十八日【1】
――尾張国・熱田湊【2】。
戦勝祈願を終えた織田の旗が、潮風に鳴っている。
中村郷の農民、木下弥右衛門の子・藤吉郎【3】。
まだ雑兵にもなれぬ身分の小者として、兵糧の荷運び、草履の手入れ、荷駄の差配などをこなす日々。
それでも、主君の機嫌を読む手際だけは、誰よりも早かった。
「この草履、あたたかいな・・誰が用意した」
「はっ、藤吉郎にございます」
「藤吉郎とな。覚えておこう」 一瞬で過ぎ去ったやりとり。
しかし、胸の奥に、この戦乱の世を生き延びるための、確かな温度が灯った。
その夜、桶狭間に向けて人馬が動き出す前、藤吉郎――いや、健一は、干した草鞋の緒を指でなぞって
いた。
「・・もう、死に戻れないのか」 誰にも届かぬ独白。白装束の声は、まだ鼓膜の裏に残っている。
『次に死ねば、終わりだ』 ――ならば、流れに身を預けるまで。
言われた通りに働き、拾える恩を拾い、決して怒らせぬように笑う。
この時代の幸福は、列を揃えることだ。
殴られずに列を揃える。揃うように、配られる。
そう自分に言い聞かせながらも、その手は別のものを思い出していた。
外洋船の断面図。桑名の船渠。
糸のような交易路。
硝石の歩留まり表、外交の暗号表――未来の設計図が、静かな時間とともに、水面下で輪郭を取り戻して
いく。 (忘れろ。もう、抗うな)
(――いや、“忘れないで”と、時をまたいで誰かが言った) ねねの声だ。
『誰も見ていなくても、誰かが見ています。あれ、わたしですから』 焚き火の橙色が揺れ、影が帆柱の
影と重なる。
流されようとする決意は、波のように寄せては返す。
諦めの上に、なお微かな昂ぶりが残っていた。
桶狭間の雷雨、泥の匂い、斜面の草の感触――七度死んでも消えなかった勘が、身体の芯に火種を抱えた
ままだ。
(正史【4】は、大筋さえ守れば細部にはこだわらない。
だが“物語”そのものの方向を変えようとした時、歴史の修正力は牙を剥く)
(ならば、物語に乗ったふりをして、骨格だけを少しずつ曲げていく) 潮が満ち、出陣の太鼓が鳴る。
藤吉郎は草鞋を結び、静かに立ち上がった。
最後の巡りが、始まる。
負けた者の唄が生み出す神聖さも、勝った者の演出が塗り替える神聖さも――そのどちらにも寄りかから
ず、ただ働き、結果だけを積み上げる。
それが、今の自分に許された、唯一の細い道だ。 夜風が火を撫で、火はわずかに背中を押した。
注釈
【1】 永禄三年五月十八日: 西暦1560年6月11日。織田信長が桶狭間の戦いに向けて出陣する前日、熱田神宮で戦勝祈願を行った日付。
【2】 熱田湊 (あつたみなと): 現在の名古屋市熱田区にあった港で、熱田神宮の門前町として栄えた。伊勢湾における重要な交通・商業の拠点だった。
【3】 藤吉郎 (とうきちろう): 羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、まだ身分が低かった頃に名乗っていた名前。
【4】 正史 (せいし): 公的に認められた、正しい歴史のこと。ここでは、史実として知られている歴史の流れを指す。




