第182章 時の狭間
◆ 暗闇・・
十三度目の死に戻り。
「・・また、死んだか」 痛みも、泥の冷たさも、もう数える術を失った。
胸の底に沈むのは、焼けた鉄片のような無力感――だが、今回は違う。
諦めたはずの心が、まだ何かを掴もうとする指を離さない。
◆ 排除の作法――“空気”が決める
信長の家中で、秀吉はいつしか「目を合わせてはならぬ」対象となっていた。
お市の方との縁談を拒んだあの日から、彼は“家”という聖域を守る印の外側へ弾かれた異物となったの
だ。
家臣たちの嫌悪は、感情だけではない。異質な者は枠に納める。
納まらなければ削り取る――それは、声に出されぬ合意という、名もなき掟。誰も命じないのに、皆が従
う。
これを俺は“空気”と呼ぶ。
◆ 最初の周回:今川家中と桶狭間
最初の死に戻りは、今川方の一兵卒だった。
俺は七度、桶狭間【1】の危険を訴え、そのたびに斬られた。
「尾張には罠がある」と言えば、驕り高ぶった空気に逆らった罪。
「織田を侮るな」と言えば、裏切りの疑い。
七度目、主君・義元の首が泥に転がる景色の中で、ようやく喉を裂く思いで“織田へ”と身を翻した。
それが、生き残るための唯一の道だった。
◆ 十三の死の抜粋
一度目:伊賀者・山田の毒の短刀。寝所で、背後から。刃よりも怖かったのは、彼の瞳に宿っていた「集
団に遅れてはならぬ」という恐れの色だった。
五度目:封印したはずの簡易火砲が、密室で火を噴いた。机からは設計図。信長の視線は氷のように澄
み、“秩序の外にある才覚”を、家中の疑念が静かに押し出していく。
九度目:帝の行幸を止めようとして、手打ちにされた。正義の名の下、異論を唱えたというだけで“その
場ごと”切り捨てられる世界。
十三度目:半兵衛が「爆薬を仕掛けたのは自分だ」と嘘の自白をした。
真の内通者が現れ、両名とも死罪。炎が上がる刑場を、俺は牢の格子越しに見上げた。
守ろうとした者から先に焼かれていく――それが、“空気”のやり口だ。
その後の死は、拷問、毒、幽閉、偽りの自決・・形式は違っても、原因はいつも同じ。
“空気”と“構造”が、異端者をすり潰していく。
◆ お市との縁——印か、囲いか
信長は言った。「お市を娶れ。」
十三度目にして、その言葉の意味が腑に落ちた。あれは懐柔ではない、封印だ。
姫は血を繋ぐための媒介であり、穢れを祓うための儀式であり、そして俺を「家」へと繋ぎとめる印であ
った。
俺はその印を断ち、封印を拒んだ。
そこから、排除の歯車は噛み合い続けた。
――あの時、印を受けていれば、この死に戻りは止まったのか?
答えは出ない。ただ、空気は印を好み、印は人を縛る。それだけは確かだ。
◆ それでも、なお
暗がりの底で、問いだけが残る。
「俺は、何のために戻る?」
歴史を正すためではない。豊臣秀吉の栄光のためでもない。
――間に合わせたい未来があるのだ。外洋船の断面図、桑名の船渠、糸のような交易路、硝石の収支表、
外交の暗号表――そして、いつか実現するはずの環太平洋連邦。
富の集中と、略奪の再生産を断ち切るための、最後の選択肢を未来に残すこと。
かつて“健一”であった頃の俺はそれを夢見て、何度もこの“空気”に心を折られた。
それでも、暗がりの底に浮かぶ顔がある――ねねの笑顔だ。
――もう、あの顔を悲しませたくはない。
「流されるままに生きる」と決めたはずの手が、焚き火の赤い光の中で、ゆっくりと握り締められてい
く。
人は殴られずとも列を揃える。揃うように、配られている。
それがこの時代の幸福の形だとしても――
――だからこそ、十四度目の朝が、静かにひらく。
注釈
【1】 桶狭間 (おけはざま): 1560年、尾張国(現在の愛知県)で起こった「桶狭間の戦い」のこと。圧倒的多数の兵を率いた今川義元が、少数精鋭の織田信長による奇襲を受けて討ち死にした、戦国時代の最も有名な戦いの一つ。




