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第180章 帝都の空気

(1576年9月)安土・京


「帝が、来年の春に安土へ行幸なさるだと? ・・正気か?」 その言葉が、禁中【1】の御簾みす


向こうで呟かれたのは、まだ暑さの残る九月の初めのことであった。


◆ 朝廷内部――「安土行幸」への動揺


安土城での儀式の準備が進むにつれ、京の公家【2】衆の間には動揺が広がっていた。


正親町天皇【3】の側近である勧修寺晴豊【4】は、小さく溜息をつきながら囁く。


「帝の行幸が“天の下向”であるならば、安土への行幸は“地による牽引”。


すなわち、天が地に引かれて汚れ、地が驕り昂ぶるということだ」


他の公卿たちも静かに頷いた。


「安土は“地の匂い”が濃すぎる。土と、火と、銭――宮中が最も遠ざけてきたものばかりよ」


彼らは信長の意図を理解しつつも、古くからの秩序が壊されることへの恐怖から、どうにかしてそれを


「一度きりの例外」として押し込めようと考えていた。


彼らにとって、帝が「成り上がり者」の城へ赴くことは、朝廷の権威、すなわち「天」が「地」に引きず


り下ろされるに等しい。


長年築き上げてきた格式と伝統が、信長の力によって侵食されることへの、本能的な拒絶反応であった。


◆ 比叡山・石山本願寺――「復興の炎」


一方で、安土の動きに明確な“危機”を感じていた者たちもいた。


焼かれた比叡山延暦寺の残党であり、今なお各地に潜伏する本願寺門徒の地下勢力である。


九月、伊賀と山科の間の山村で、密かな集会が開かれていた。


「火には声を。奴は火をもって国を変えた。ならば、我らは国を縛る声で応えねばならぬ」


「安土に帝を呼ぶとは、神仏を“見下ろす”ということ。その“罪”を、我ら僧侶の“言葉”で世に知らしめ


よ」


「浄土宗・天台宗・真言密教――すべてに回状を送れ。“仏敵”が“天”を装うことの危険性を、天下に広め


るのだ」

その中には、元比叡山の高僧、顕綱けんこうの姿もあった。


「我らが為すべきは、言葉を放つだけでなく、信長に疑念を抱く“場”を作ることだ」


彼らの目には、信長と秀吉が旧来の信仰と権威を破壊する「穢れた存在」として映っていた。


直接的な武力ではなく、人々の心に潜む信仰心や伝統への畏敬の念に訴えかけ、「信長は神仏に背く者」


という「空気」を醸成することで、間接的に信長を孤立させようとする戦略であった。


◆ 明智光秀、動く


この二つの「空気」の変化を、誰よりも早く察知したのは――明智光秀であった。


彼は信長の命を受け、帝の行幸に関する実務を進める立場にありながら、朝廷内の妙な“静けさ”に、肌で


異変を感じ取っていた。


「――何も言われないのが、最も危うい。公家衆は黙っているのではない、“観ている”のだ」


その夜、光秀は秀吉からの使者を密かに呼び寄せ、一通の書簡を託した。


――信長様へ。


京の空気は、晴れて見えても、底におりがございます。


火薬を扱う前に、まず湿り気を抜くか、あるいは雨で鎮めるか・・いずれにせよ、火は待ってはくれませ


ぬ。


光秀もまた、「空気」の恐ろしさを知る者だ。


朝廷が「黙している」ことで、むしろ信長への不満や抵抗感が水面下で強まっていることを察知してい


た。


この目に見えない「澱」が、やがて大きな反発へと繋がる可能性を、彼は秀吉に伝えようとしていた。


◆ 安土城にて――秀吉の内省


知らせを受けた俺は、安土の天守から、南に霞む京の方角を見やった。


(“神の座”を動かせば、“祓い”が起きる。・・分かっていたさ。分かっていて、やっている。未来の記憶


は知っている――明治政府が帝を東へ遷す。ならば我らにできぬ道理はない。)


ねねが、背後から静かに言った。


「あなたが“天”を引き寄せようとなさるなら、“地”はあなたを“穢れ”として祓おうとする。ただ、それだ


けのことです」


「ならば――祓いの儀式の先に、祭りを用意するまでだ。人々を怯えさせるのではなく、懐へ抱き込むた


めの奇跡をな。空気は退けるものではない。こちらで設計する材料だ」


俺の目は、すでに次を見据えていた。


それは、力による制圧ではない。


見えない「空気」を「物語」で塗り替える、新たな支配の形だ。


信長が作り出す「権威」の「空気」に対し、俺は自らが「奇跡」という「物語」を演出し、人々の心を掌


握することで、新しい時代の「空気」を作り出そうとしていた。




注釈

【1】 禁中 (きんちゅう): 天皇の住まいである御所のこと。特に、外部の者が立ち入ることを禁じられた内裏を指す。

【2】 公家 (くげ): 京都の朝廷に仕える貴族たちのこと。武士階級(武家)とは区別される。

【3】 正親町天皇 (おおぎまちてんのう): 織田信長と同時代に在位した、第106代天皇。

【4】 勧修寺晴豊 (かじゅうじ はれとよ): 安土桃山時代の公家。自身の日記『晴豊記』に、信長や当時の朝廷の様子を詳しく書き残した。

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