第179章 港の整備と再出航の支度
(1576年8月) 桑名・尾鷲・淡路
夏の強い日差しが白い波を照らす頃、俺は再び桑名湊【1】に降り立った。
ここには、もはや船があるだけではない。「国の形」そのものが作られつつあった。
【桑名港――「中核港」への転換】
港には、すでに三つの船渠が設けられている。
第一船渠: 就航中の船の修理や塗装、水密検査を行う。
第二船渠: 新たな二番艦の竜骨【2】が据え付けられている。
第三船渠: 鉄の部品や水車の機構を組み立て、船の艤装【3】を専門に行う工房。
俺は一つ一つの場所を回り、指示を出す。
「初航で判明した浸水対策を徹底的にするのだ」
「帆走の再調整と一番力の掛かる部材の確認は一番にせよ」
「船は“動く城”じゃ。ならば、城のように守り、整えよ。物資の補給、船体の修理、兵の乗船、病の確認
――すべてに“順路”を定め、淀みなく動かせ」
桑名には新しく”港政所令」”を布告し、港政所【4】という
役所を置いた。
港へ入る全ての船は、入港・出港を記録する帳面への記載と、医師による仮検疫(発熱や発疹の確認)、
そして積荷目録の提出を義務付ける。
さらに、船ごとに番号・目的地・積荷の概要を記した「港札」を発行し、入出港のたびに
掲示させた。
蜂須賀小六【5】が苦笑いしながら言う。
「殿、この仕組み・・まるで“関所と蔵”を海に持ってきたようですな」
俺は答える。「違う。“国そのもの”を海に移しただけだ。港はただの通り道じゃない。“国の入り口”なの
だ」 これは、来るべき「海の帝国」のための礎であった。
【尾鷲・淡路――地方港の再編】
桑名を中核としつつ、俺は尾鷲【6】と淡路【7】の二つの港にも命令を下した。
尾鷲港: 東南アジアとの交易に特化した“外港”とする。香木や香辛料の専用倉庫を置く。
淡路港: 艦隊の信号所、真水の補給、小規模な修理を担う“軍港”とする。税関も設ける。
各地に「港奉行」を配置し、船の往来を許可し、積荷を検査し、税を取り立てる仕組みを敷いた。
さらに、伊賀の者を使い、秘密の貿易ルートを見張る網を張り巡らせる。
正規の航路以外の取引は、海関律という法により、「罰金・積荷没収・年季閉港」の罰
を科した。
【再出航の準備と命令】
最初の船「日ノ本丸」は、塗装も積荷も終え、再び大海へ出る準備が整っていた。
積荷: 美濃紙100束/鉄製農具500本/漆器200点
携行銀: 京銀【8】300貫/石見銀【8】150貫分
武装: 火縄銃30挺/軽弩砲2門(防御用)/天筒火砲【9】20門/携帯型天筒20包
乗員: 水夫80名/商人4名/伊賀者8名/記録係2名
目的地は――ルソンを経て、シャム王国との初の公式接触。
さらにその先、パレンバン、マラッカ【10】までの航路を試す。
艦長には、堺出身の航海士・伊吹与左衛門を任命した。
積荷と武装は港政所の封蝋【11】で封印され、途中寄港地での勝手な変更は封蝋破りとして厳罰に処
す。 俺は自ら、最後の命令を下した。
「この船は、“物”を売るために出すのではない。“織田の名”を、海の向こうへ掲げに行くのだ。そして必
ず帰ってこい――未来を載せてな」
彼の目に、俺の夢のすべてを託した。
その瞳の奥には、新たな世界への希望と、それに伴う未知への不安が、複雑に交錯していた。
【港を見下ろしながら】
夜。ねねと共に港の灯りを見下ろしながら、俺は小さく呟いた。「
この国は、“海から滅ぼされた”ことはない。だが、“海から始まった”こともなかった」
ねねが、静かに俺の言葉を繰り返す。
「これが、“初めての始まり”なのですね」
「そうだ。これは“出港”じゃない――“建国”なのだよ」 海の闇の向こうで、風を受けた帆が揺れた。
その帆は、新たな時代の幕開けと、秀吉の壮大な野望を、静かに、しかし力強く示しているかのようであった。
そして、物語の次なる章――“海の国”の胎動が、ゆっくりと始まりつつあった。
注釈
【1】 桑名湊 (くわなみなと): 現在の三重県桑名市にあった港。伊勢湾に面し、東海道の要衝として古くから栄えた。
【2】 竜骨 (りゅうこつ): 船の構造の中心となる、船底を縦に通る最も重要な部材。キール。
【3】 艤装 (ぎそう): 船体を造り終えた後、マストや帆、舵、錨、大砲などの装備を取り付けて、船を完成させる作業のこと。
【4】 港政所 (みなとまんどころ): 物語上の架空の役所。港の行政、税関、検疫、警察機能などを一手に担う機関。
【5】 蜂須賀小六 (はちすか ころく): 蜂須賀正勝のこと。尾張国の土豪で、早くから秀吉に仕え、墨俣一夜城などで活躍した腹心の部下。
【6】 尾鷲 (おわせ): 現在の三重県尾鷲市。紀伊半島の東側に位置し、良港として知られる。
【7】 淡路 (あわじ): 瀬戸内海最大の島。畿内と四国を結ぶ海上交通の要衝。
【8】 京銀 (きょうぎん) / 石見銀 (いわみぎん): 当時の銀のブランド。京銀は京都で精錬された高品質な銀、石見銀は世界有数の産出量を誇った石見銀山で産出された銀。
【9】 天筒火砲 (てんづつかほう): 物語上の架空の大砲。
【10】 パレンバン、マラッカ: いずれも当時の東南アジアにおける重要な港市国家。パレンバンはスマトラ島、マラッカはマレー半島に位置し、香辛料貿易などで栄えた。
【11】 封蝋 (ふうろう): 手紙の封筒や容器の蓋などに蝋を垂らし、印章を押して封印すること。開封すれば跡が残るため、機密保持や中身の保証のために用いられた。




