第178章 異国と貨物と国益と
(1576年7月) 犬山城
その日、俺は三つの国への交易方針を最終決定した。大きな海図が、壁にかかっている。
桑名の海事衙【1】から届いた航海記録と、犬山の作戦衙の帳簿が、机の上で重なってい
た。
そこには、墨で三方向への航路が示されていた。
南西: ポルトガル(マカオ、ゴア、リスボン【2】)
南方: 明(福建・広州方面の密貿易ルート)
南東: 東南アジア諸国(ルソン、シャム、パレンバン【3】など)
俺の頭の中では、すでに世界経済のシミュレーションが動き出している。
複雑な貿易ルートと、それぞれの地域が持つ特性が、鮮やかに描かれていた。
【第一の相手:ポルトガル(キリスト教/技術と武器の国)】
売るもの:鉄製刃物(包丁、小刀、農具)/美濃紙・越前和紙/金漆器/織物(綿、絹、麻)/金、銀、
真珠/瀬戸の磁器
買うもの:西洋の書籍(地理学、医学書)/ガラス製品、時計/信者網がもたらす情報
方針は明確だ。キリスト教の布教とは距離を置く。俺たちが付き合うのは、あくまで「商人」だけだ。
窓口は桑名商館一本に絞り、聖職者が領内に入るには寺社奉行の許可を必須とする。
火器の技術は学ぶが、製造は国内で完結させる。奉行を通じてポルトガル語の通訳と記録係を常駐させ、
契約書も厳密に管理する。
俺の狙いは一つ。「奴らは“神の名”で国を呑みに来る。だが、連中は金銭よりも“約束”に縛られる。なら
ば、その“言葉”はこちらで書かせるまでよ」 相手のルールを逆手に取る。それが俺の戦だ。
【第二の相手:明(中華皇帝/禁じられた密貿易の国)】
売るもの:銀(石見銀山【4】からの密輸分を含む)/生糸の加工品(京で織った絹織物)/漆器/サン
ゴ、真珠
買うもの:高級な生糸/陶磁器(特に景徳鎮【5】の青磁)/漢方薬(朝鮮人参、竜脳【6】など)/書
籍、書道用品
方針:正式な貿易は、琉球や東南アジアの商人を仲介させる。こちらの名は伏せる。 表向きは勘合【7】
を用い、裏では港の主と直接印を交わす。寧波【8】や福建ルートの「海の関所」で、裏帳簿を管理する
のだ。密貿易も、取り締まる側を抑えれば、合法に近づく。
俺は知っている。「明は“礼”で動く国だが、その礼は“地位”と“筆”に宿る。つまり、見せかけさえ整えれ
ばよい。奥に金が通れば、儒学者も黙る」 見せかけで相手を動かす。それが俺のやり方だ。
【第三の相手:東南アジア諸-国(ルソン、シャム、パレンバンなど)】
売るもの:鉄製刃物、農具(価格で圧倒する)/水車や粉挽き機の技術、小型船/漆器/木綿、麻
買うもの:香木(沈香、白檀)/黒糖、ナツメグなどの香辛料/染料(紅花)/硫黄、硝石、鉛(火薬の
原料)
方針:現地に商館を置き、日本人町を育てる。寄留という形で家族ごと移住させ、倉庫とわ
ずかな兵を置く。
キリスト教勢力がいる地域では、地元の王と個別に約束を結ぶ。シャムとは直接使者を送
り、互いの船が行き来できる許可証を作る。
俺は確信している。「奴らは“島と港”を抑えれば、道理も書き換える。ならば、こちらが先に“島を拠点
にする”のだ。人と倉と兵を置けば、やがてその港も国になる」 これは、俺の描く「環太平洋帝国」へ
の、最初の一歩であった。
【石田三成の助言】
石田三成が、帳簿の整理案を提示した。
「三方向に対し、貨物・通貨・帳簿の形式を分けて管理すべきです。ポルトガルは“商人の言葉”で、明
は“役人の体面”で、東南アジアは“口約束と剣”で動きます。
各地の為替レート、言語、そして信仰の扱いまで踏まえ、それぞれ“三種の海の帳簿”を整備する必要がご
ざいます」
半兵衛も頷く。
「一元化はかえって破綻を招く。ならば、“三つの顔”で臨めばよい」
俺は静かに頷いた。そして最後に、付け加える。
「もし、売られた日本人がおれば、必ず買い戻せ」 桑名商館の規則に“還籍金”【9】の
項目を設ける。通交印と引き換えに、まず同朋を買い戻すのだ。費用が足りねば、信用金庫が立て替え
よ。
(ポルトガル人の中には、キリスト教の教えを盾に、自分たち以外は猿同然だと考え、奴隷にすることも
正当な権利だと思っている者もいる) 「だから、交わる者すべてに“別の仮面”を持たせろ。そして、いず
れその“仮面”が剥がれる時まで、演じきれ。交易とは戦だ――ただ、血の代わりに“金”が流れるだけの
な」
俺の目は、遙か海の向こうを見据えていた。
その瞳の奥には、単なる利益追求だけでなく、異文化との衝突を乗り越えた先にある、「人類の最適解」
への、壮大なビジョンが描かれていた。
注釈
【1】 海事衙 (かいじが): 物語上の架空の役所。海運や貿易に関する業務を統括する機関。
【2】 マカオ、ゴア、リスボン: いずれも16世紀のポルトガル海上帝国の重要な拠点。リスボンは本国の首都、ゴアはインド西岸の拠点、マカオは中国との貿易拠点だった。
【3】 ルソン、シャム、パレンバン: いずれも当時の東南アジアの地名。ルソンはフィリピン、シャムはタイ、パレンバンはスマトラ島にあった港市国家。
【4】 石見銀山 (いわみぎんざん): 現在の島根県にあった、当時世界有数の産出量を誇った銀山。日本が産出する銀は、世界経済にも大きな影響を与えた。
【5】 景徳鎮 (けいとくちん): 中国の江西省にある、世界的に有名な磁器の産地。
【6】 竜脳 (りゅうのう): 香料や薬として使われた、龍脳樹から採れる貴重な樹脂。
【7】 勘合 (かんごう): 二つに割った印を互いに持ち、それを合わせることで正規の証明とする仕組み。特に日明貿易で使われた勘合符が有名。
【8】 寧波 (にんぽー): 中国浙江省の港湾都市。古くから日本との交易の窓口だった。
【9】 還籍金 (かんせききん): 物語上の架空の制度。当時、ポルトガル商人によって多くの日本人が奴隷として海外へ売られていた。それを買い戻すための資金制度。




