第177章 沈まない船
(1576年7月)桑名
その夜、月明かりの中。
ねねは、いつになく沈んだ面持ちで俺の隣に腰を下ろした。
「・・最近、奥の方々から、よく言われるのです」
「何をじゃ」
「あなたのこと。“出すぎている”と。“信長様に取り入って、我が物顔だ”と。表立っては言いません
が・・もう、周囲の空気が冷えてきています」 ねねの声には、ただの心配以上の、切実な響きがあっ
た。
俺は少しだけ目を細め、波の向こうを見た。
桑名の湊には、整備中の隔壁船が三艘、黒い影を落としている。
「・・分かっておる。気づいていないと、思うていたか?」
「では、なぜ? なぜそこまでして信長様に尽くすのですか? もう、十分ではありませんか?」 俺は答え
なかった。
いや、答えが見つからなかったのかもしれない。
代わりに俺の脳裏には、信長の背中が浮かんでいた。
誰よりも先に、誰よりも孤独に、世界を変えようと歩み続ける男の姿。
そして、ふと考えてしまう。
――どこへ行っても、「下賤の出【1】」「何処の馬の骨とも知れぬ者」と蔑まれ、無視され、まともに
評価もされなかった。
挙句の果てには、信じた者に裏切られ、殺された。
何度死に戻っても、最後には必ず心を踏みにじられた。
その果てに、俺はすべてを切り捨てるように――
「もう、関係ない」と、自分に言い聞かせるようになった。
そんな中で、たった一人、生まれも過去も関係なく、“働き”だけで見てくれた男――それが信長様だっ
た。
一瞬、逃げ道を見つけそうになる。信長様を“神”として崇めてしまえば、どれほど楽だろうか。
だが違う。
俺がこの人から掴んだのは“背中の理屈”であり、“前へ押す力”だ。拝むために従っているのではない。
この人が拓く道に、賭けているのだ。
「信長様は・・“前を向いたまま、決して振り返ることのできぬ”お人じゃ。
だから、その背中を誰かが見て、記憶しておかねばならんのだ」
「それは・・あなたの役目なのですか?」
「そうありたい、と思うておる。たとえ、誰に嫌われようとも」 ねねは、少し悲しげに笑った。
「あなたは“沈まない船”を作ると言いましたね。――でも、人の心は、船より先に沈んでしまうもので
す」 俺は小さく頷いた。
「――だからこそ、沈まぬように“設計”せねばならん。制度は船の外殻、支える仕組みは肋骨。そして、
信じてくれる人々が竜骨【2】となる。
何より・・信じてくれる者を、決して失わぬように」 その言葉の最後、ほんのわずかに声が震えたの
を、ねねは見逃さなかった。
「あなた、怖いのですね」
「・・ああ。今が一番怖い。勝ちすぎたとき、誉められすぎたとき、持ち上げられたときが、一番・・落
ちやすい」 俺はしばし沈黙した後、ぽつりと呟いた。
「・・拍子を外した音は、最初に消される。よくできた世の理屈よ」 ねねが、静かにこちら
を見つめていた。
「これまでも、何度も打たれてきた。出すぎた杭なら、いっそ倍にしてでも突き抜けてやろう。そう思っ
て、ずっと進んできた。力でねじ伏せれば、道は開けると信じて」
俺の言葉に、ねねは何も言わなかった。ただ、待っていた。
俺の心の奥底から、本当の言葉が出てくるのを。
「・・いくら突き抜けても、後ろから追いかけてくる針は増えるばかりだ。打たれた杭の影が、いつの間
にか的の輪に見えてきた」
その声には、ほんの一滴、乾いた笑いが混じっていた。 ねねは、俺の肩にそっと頭を寄せて言った。
「では、打たれないようにするのではなく、打たれても折れないように、あなた自身を作り変えればよい
のです。あなたが言った“沈まない船”のように」
俺は、ふっと息を吐いた。
「・・その船は、もう“俺”そのものかもしれんな」 ねねの返事はなかった。
だがその静けさが、何よりも強く俺を支えていた。
桑名の夜――潮の音とともに、心の奥に沈んでいた不安が、少しだけ水面に浮かび上がった、そんな瞬間
だった。
注釈
【1】 下賤の出 (げせんので): 身分が低い生まれであること。農民の子とされる秀吉は、武士が支配する社会において、その出自を理由に生涯にわたり侮蔑や差別に苦しめられた。
【2】 竜骨 (りゅうこつ): 船の構造の中心となる、船底を縦に通る最も重要な部材。キール。これが船全体の強度を支える。




