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第176章  「黒船、来たる」

(1576年6月)桑名湊


六月の朝、伊勢湾【1】の空は曇天に包まれていた。


遠くに雷鳴が聞こえる中、桑名【2】の湊に立つ者たちが、一斉に息を呑む。


「・・来たぞ」 誰かが、絞り出すような声で呟いた。


その先に、空を割るかのような漆黒の巨体――全長四十四間(約80m)、「排水量は“2万石級”(概算1〜


2万トン相当)」を積載可能な、かつて誰も見たことのない巨大な外洋船が、ゆっくりと姿を現した。


この全長八十メートルという巨体は、当時ヨーロッパで最大級とされたスペインのガレオン船(全長5


0〜60m)をも遥かに凌駕するものであった。


高くそびえる船尾楼を持つガレオン船が「浮遊する城塞」ならば、この船は重心を低く抑え、外洋の荒波


を切り裂くために生まれた「海の獣」とでも言うべき姿をしていた。


隔壁構造によって船体内部は蜂の巣状に区切られ、一部に浸水があっても即座に塞ぎ、別室で排水と修理


が可能となっている。


三本の巨大なマストには日本製の改良帆が張られ、その姿はまるで“異国の軍艦”――いや、“いまだ、ど


この国も持たぬ未来の船”であった。


船首には、織田家の家紋である「織田木瓜おだもっこう」が描かれている。 桟橋の先では、先月の


浚渫しゅんせつと突堤の延長工事が終わったばかりであった。


黒船は喫水【3】を十分に保ったまま、静かに横付けした。 「無事、帰還いたしました!」


一番高い甲板から身を乗り出して叫んだのは、若き水主長かこおさ・大賀九郎兵衛。


彼らは、ルソン【4】を経て南蛮商人と会合し、現地の交易港と初の協定を結んで帰還したばかりであっ


た。


◆ 秀吉、湊に現る


帰還の報せを聞いた羽柴秀吉は、伊勢方面より馬を飛ばし、桑名湊に現れた。


「これが・・“俺たちの黒船”か」 俺は船体に触れた。かすかな熱が伝わってくる。


焼き鉄と油、麻と潮の匂い――それは戦の匂いではない。“交易”と“拡張”の匂いであった。


これこそが、俺が未来に繋ごうとしている「人類の最適解」への、確かな一歩なのだ。


副長が航海日誌を差し出す。


「航海は順調。外海にて一度ポルトガル船を目視しましたが、接触は回避いたしました。


ルソンでは絹、香木、黒砂糖、鉛、硫黄を得て、代わりに和鉄、紙、干物を取引。現地の港湾長からは、


羽柴殿の“名”を刻んだ通交印つうこういんを賜っております」


俺は静かにそれを受け取り、口の端を吊り上げた。


「・・“戦のための鉄”が、“富のための鉄”に変わる。そういう時代が来た、ということか」


俺の頭の中では、すでに世界地図が広がり始めていた。


この一隻が、世界を繋ぐ鎖の、最初の環となるのだ。


◆ 黒船の内部構造


船内に入ると、多重の隔壁で区切られた構造が、まるで“要塞の中の街”のようであった。


16世紀の造船技術において、木造船でこの規模を実現することはほぼ不可能とされていた。


竜骨材として使える一本木の長さに物理的な限界があり、船体が長大化すれば自身の重みで歪み、裂けて


しまうからだ。


しかしこの船は、日本の宮大工が持つ精緻な木組みの技術と、秀吉がもたらした“未来の”構造力学の知識


を融合させていた。


隔壁構造が船体そのものを箱のように支え、合成梁が強度を補強することで、木材という素材の限界を超


えることに成功した、当時の技術と素材で建造しうる最大級の艦なのである。


最下層:石を積んだ船底バラストと、鉛板で補強された防水隔壁。


鎖で繋がれた揚水機による排水路を備える。


中層:物資倉庫。左右対称に分かれ、片方の船腹が損傷しても船体のバランスを保てる。


上層:水兵の居住区と食糧庫、そして射撃用の甲板(弩砲・火縄銃を想定)。


設計には堺の職人と伊賀の金属工、そして南蛮の技術者が関わっており、「外洋航海と軍事・物流の両


立」を主眼に置いた、いわば“汎用制海船”であった。


俺は歩きながら、その技術の粋に感嘆した。これは、単なる船ではない。


未来の文明を運ぶ「箱舟」の雛形だ。


◆ 信長への報告と、次なる命


安土に戻った俺は、信長の前で報告を行った。


信長はその報告を聞きながら、地図の端を指差した。


「次はシャム【5】か。いずれ“天竺【6】”まで辿り着くやもしれんな」


その言葉に、俺の胸は高鳴った。


信長様は、俺の壮大な夢のさらにその先、文字通り「天竺」まで見据えている。


やはりこの男は、常軌を逸している。だが、だからこそ、共に未来を創ることができる。


「御意に。ですが、海の向こうの“秩序”は、陸よりもなお不安定でございます。魑魅魍魎(ちみもうりょ


う)が跋扈ばっこする大海でございますゆえ」


「ならば――秩序を作ればよい。その黒船を、“法”と“戒律”の象徴とせよ。海の大名は、刀ではなく、印


と帆で治めるのだ」


信長の目が、俺を射抜くように光った。


その言葉は、俺の構想をさらに大きく超えていた。


「はっ!」 俺の背筋が、自然と伸びる。


この瞬間、俺の役目は「戦国の将」から「海の治者」へと変貌し始めた。


そしてその足元には、次の“帝迎え”に向けた準備の足音が、着実に迫っていた。




注釈

【1】 伊勢湾 (いせわん): 三重県と愛知県にまたがる湾。古くから海上交通の要衝だった。

【2】 桑名 (くわな): 現在の三重県桑名市。伊勢湾に面した港町で、江戸時代には東海道の宿場町としても栄えた。

【3】 喫水 (きっすい): 船が水に浮いているときの、水面から船底までの垂直距離。喫水が深い(数字が大きい)ほど、大型船であることを意味する。

【4】 ルソン: 現在のフィリピン共和国のルソン島。16世紀にはスペインの植民地マニラがあり、日本との南蛮貿易の重要な中継地だった。

【5】 シャム: 現在のタイ王国の旧称。アユタヤ王朝は、当時東南アジア有数の交易国家として栄えていた。

【6】 天竺 (てんじく): インドの古い呼び名。仏教の発祥地であり、日本人にとっては遥か遠い、世界の果てにある国というイメージがあった。

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