第174章 豊かさへの猜疑
(1576年4月) 尾張・犬山
犬山の町は、目に見えて豊かになっていた。
新設された信用金庫には朝から町人が列をなし、札勘台【1】の上を真新しい利札が滑っていく。
川の水車は力強く回り、市の活気は途絶えない。
家臣の前野長康は、満足げにその光景を眺めていた。
「ご覧ください、殿。犬山の金は巡っております。札が札を呼んでいるようですな」 秀吉は頷き、しか
し窓越しの市へ目をやった。
市は賑わっている。――だが、その賑わいには奇妙な静けさが伴っていた。
八百屋の前を人が通り過ぎるが、威勢のいい呼び込みの声は聞こえない。
魚屋の店先で、客と主人が言葉少なに銭と品物を交換する。
行列は、まるで決められたかのように半歩ほどの隙間を互いに守り、肩が触れ合わぬよう、誰もがわずか
に身を引いていた。
人々の笑い声は聞こえず、話し声も軒先で折れて消える。
「見違えるようですな」と前野は言う。
「静かすぎる」と秀吉は応えた。「それに――居心地が悪い」
昼過ぎ、秀吉は中央の市を歩いていた。そこへ、商人の吉兵衛が袖口を握りしめながら近づいてくる。
「殿。お陰様で札は増えましたが……今や我らは、まるで丸裸にされた気分でございます」 吉兵衛が差し
出した帳面は、完璧だった。
あまりにも完璧すぎた。
「大根一本、誰に、何時に、いくらで売り、その大根はどこの村の誰から仕入れたか」まで、すべてが記
されている。
「これでは、客と話す刻よりも、帳面と向き合う刻の方が長うございます。日が暮れても、帳簿付けが終
わらぬ日も珍しくありませぬ」
役人が日に何度もこれを検分に来るという。
これでは、常連客に少しおまけをしたり、物々交換をしたりといった商売における人情の入る隙間がい
る。
「見えぬ鎖で繋がれたようで」と吉兵衛は言った。
翌朝、川べりの水車小屋で、老職人が水車の羽根板に油をひと滴落とし、指でそっと回した。
「殿、私には子がおりませぬ。私が止まれば、この歯車も止まります。図面に描かれた通りには、物事は
元へ戻りませぬ」
その言葉は、人が作り出した完璧な仕組みの脆さを静かに物語っていた。
町の角。信用金庫の前は、今日も列が伸びている。札束は乾いて軽い。 秀吉は帳場に戻ると、筆を取り
上げて短く告げた。
「帳簿の最後の行は『雑損』とし、自由に記してよいこととする。細かい使途は問わぬ。商人に“余白”を
渡せ」 「しかし、御公儀への公開義務が――」と役人が問う。
「ならば、提出に必要な印判を一つ減らせ。金は十分に足りておる」
午後、製粉所の修理場。
これまで町の鐘楼【2】は人々の暮らしに合わせて時を告げていたが、今は役人が鳴らす太鼓の音だけが
響く。
「トーン!」という音で仕事が始まり、「ドドーン!」という音で一斉に手を止めねばならない。
若者たちは黙って回転数を読み上げ、その機械的な拍子に従って米の袋を縛っていた。
秀吉は、その様子を見ていた女が、子に「米の殻でも煮ておやり」と言うのを聞いた。
子は遠い鐘楼を指さし、囁いた。
「あの鐘は、鳴らすなと言われた」と。
夕刻、秀吉は城の板間で、帳面と札の束を並べて見た。 ――札は回る。金は巡る。
だが、人の目は数字に追われ、笑いは拍子で切り揃えられ、言葉は印判の下で縮こまっている。
(豊かさを乾かしてしまうのは、細かすぎる管理だ) 「もう一つ」秀吉は付け加えた。
「市の太鼓は、朝の開店の刻だけとせよ。いつ店を閉めるかは、各々の主人に任せる。人の息遣いを、仕
組みの先に置け。」
「お触れの札は、いかがいたしましょう。」
「札の文言は簡潔に。そして、大きな立て札だけでなく、役人が路地を歩き、口でも伝えて回れ。」
『札の枚数は増えた』という噂と、『印判が一つ減った』『太鼓の回数が減った』という囁きが、同じ風
に混じって町を走った。
水車の音は続く。市は明日も開かれる。
それでも――人々の間にあった半歩の隙間は、まだ犬山の豊かさに薄い影を落としていた。
秀吉は最後の帳面を閉じ、灯を落とした。
(札で潤すだけでは足りぬ。拍子で人の息を戻し、印で縛るのではなく、印で――鎮めるのだ。
次は、人が人に戻るための“余白”を、この地図に空けてやらねば)
注釈
【1]} 札勘台 (さつかんだい): 紙幣(当時は米や銀などと交換できる「札」)を数えやすくするための台。
【2】 鐘楼 (しょうろう): 時を知らせるための鐘を吊るしたやぐら。




