第173章 沈黙する村
(1576年3月) 美濃・郡上
春霞が谷を包む頃、秀吉は美濃国・郡上【1】の地にいた。
戦火を直接は逃れた山村とはいえ、土地は痩せ、村の空気は重く淀んでいる。
「この冬はな、葱しか食うておらん・・」 農民の老人が口を歪めて笑うが、その目には涙のような濁り
があった。
飢えと疲弊が、人々の顔に深く刻み込まれていた。
冬を越した田畑は、ぬかるみと石に覆われている。
戦による徴発で牛馬は減り、畦道も崩れかけていた。
「この辺りは用水路が浅すぎてな、夏場はすぐに枯れてしまうんじゃ。羽柴様、鍬の前に、まず水が要
るんじゃわ」 老庄屋【2】の言葉に、秀吉はその場で命を下した。
「鍛冶衆と木工を、明日よりここへ寄越させる。水路を深く掘り、道には砕いた石を敷け。馬と牛の替え
も、尾張から手配しよう」
「ほ、ほんまに・・?」 庄屋が言葉を詰まらせた。
その声には、半信半疑ながらも、かすかな希望が宿る。
「信長公は言われた。“慰撫せよ”と。わしはそれを、ただ“休ませよ”という意味だとは思っておらん。“根
を張らせよ”という意味だと受け取った。荒れた土地に、生きるための根を張らせる。それがわしの役目
じゃ」
その言葉に、村人たちの顔にわずかな生気が戻った。飢えで死んだようだった目に、光が灯る。
しかし――村の奥、竹林の先に、焼け落ちたままの寺があった。
焦げた梁の先に、朽ちかけた鐘楼が立ち尽くしている。
秀吉は一人、その前まで歩を進めた。 「・・一向宗【3】の末寺か」 随行の伊賀者が頷く。
「はっ。信長様の命により、二年前に焼き討たれ、放置されております。山の者どもは、“祟りがある”と
申して再建を拒んでおります」
秀吉は黙ったまま、黒焦げになった仏像の残骸を見下ろした。
それは、信長が破壊した「古い秩序」の象げんかであり、彼の心には、長島一向一揆【4】での無力感が
再び蘇っていた。
その時、背後から足音が一つ。若い僧侶と思しき男が、草履も履かぬ足で現れた。
その瞳には、燃えるような怒りと、深い悲しみが混じり合っている。
「帰れ。ここは、穢れが祓われた地じゃ」 声は低く、目だけが鋭く秀吉を睨んでいた。その声には、土
地に根ざした信仰の、深い怨念が込められていた。
「祓われたのは、寺か、それとも信仰か」 秀吉が問い返す。
「・・どちらも同じことよ。民の“縁”を焼けば、それは神仏を殺すのと変わらぬ」
僧は、怨念のこもった声で吐き捨てた。
「――では、信仰は死んだのか」 「否。お前のような者がいる限り、怨霊は生きる。
そして、その怨念はいつか、お前が築こうとする新しい世をも焼き尽くすだろう」 僧はそれだけを言い
残し、深い悲しみと怒りをたたえたまま、山に消えていった。
しばしの沈黙の後、秀吉はふと口にする。
「・・まだ、“戦”は終わってはおらぬようだな」。 いや、これは新しい形の戦か。
竹林の上を吹く風が、まるで火の気配を含んでいるかのようだ。
(これが“空気”か――) 秀吉――いや、健一は、肌で感じていた。
この郡上の村人たちが共有する、目に見えない共通認識や感情。
信長による寺の焼き討ちという過去の出来事が、「祟り」という名の「空気」を生み出し、復興を阻んで
いる。
具体的な武力はなくとも、過去が人々の心に残した深い傷と不信感が、集団の行動を縛っているのだ。
(若い僧は、俺を信長の代理人として、村の縁を断ち切った“穢れた者”と見なしている。彼の言葉は、個
人的な恨みだけでなく、「神仏を焼く者は穢れている」という村全体の“空気”の代弁だ。この“空気”は、
俺が差し出す水路や牛馬といった善意すら、受け付けぬほどの強い拒絶反応を生んでいる)
健一は、自分が直面している敵の正体を悟っていた。
それは刀や槍では斬り伏せることができず、合理的な説得も通じにくい。
人々の心の奥底に根ざした信仰や慣習に深く結びついた、この見えざる「空気」こそが、これからの本当
の敵となるだろう。
注釈
【1】 郡上 (ぐじょう): 美濃国(現在の岐阜県)の地名。山深い地域で、独自の文化や気風が根付いていた。
【2】 庄屋 (しょうや): 江戸時代以前の村の長。年貢の取りまとめや村の自治などを行った有力者。
【3】 一向宗 (いっこうしゅう): 浄土真宗本願寺派のこと。信徒による武装蜂起「一向一揆」は、織田信長を最も苦しめた勢力の一つ。
【4】 長島一向一揆 (ながしまいっこういっき): 1570年から数年にわたり、織田信長と伊勢長島(現在の三重県)の願証寺を中心とした一向宗門徒との間で行われた激しい戦い。信長は数万人の門徒を虐殺したとされ、戦国時代でも特に悲惨な戦いの一つとして知られる。




