第172章 新年の訓示
(1576年1月) 安土城・大広間
正月の冷気が城の高台を包み、杉の床に灯りが静かに揺れていた。
金屏風の前で、信長がゆるりと立ち上がる。その瞬間、広間の空気が締まった。
「昨年まで――よく戦った。上杉、武田、毛利、三好、一向宗・・・敵は尽きぬかと思われたが、今や天
下は我らの手の内にある」 声は大きくない。
だが、聞く者の胸の奥まで届く響きがあった。
「しかし、戦は続くものではない。刃も、鍬も、そして人の命も、すり減っていく。百姓も、商人も、
工人も、皆、疲れ果てておろう」
一拍の間。
「よって、今年一年は慰撫【1】に努めよ」 ざわめきが、さざ波のように薄く広がった。
信長は続ける。
「百姓には休耕を許し、税を二割減免することを試みる。用水路の普請【2】も、今年は無役【3】とせ
よ。これからの工事は、賃銭を払って人を雇え。商人は関銭【4】を三割引きとする。工人は急ぎの仕事
以外、無理をさせるな。――今年は、力を蓄える年と心得よ」 その視線が家臣たちを掃き、畳の上へと
落ちる。
「――そもそも、三年も戦い続けられたのは、誰のおかげか」
沈黙が、一つ床に落ちた。誰も答えない。
「秀吉じゃ」 視線が一斉に羽柴秀吉へ注がれる。
柴田勝家は握った拳を静かに開き直し、佐久間信盛は盃の縁を指で一度だけ撫で、明智光秀は目を伏せて
息を整えた。
いくつかの顔に笑みの形だけが浮かび、酒はあまり減らない。
「羽柴のおかげで、米も、銭も、道具も、道も、すべてにおいて他国に勝っておる。だからこそ、我らに
は余力がある。だが、慢心は許さぬ。力があるからこそ、今は“誇り”を誇示するのではなく、大地に根を
張れ」
硬い言葉の後、信長はわずかに声の調子を和らげた。
「それから、もう一つ。――来年、帝【5】をこの安土にお迎えする」 今度こそ、広間は大きくどよめ
いた。
前代未聞の行幸【6】。
天を、地上に建てた自らの城へ迎えるというその意志が、場の温度を一変させた。
「型を外すな。心を逸らすな。皆、正装で城門に並び、お出迎え致すのだ」 秀吉が一歩進み出て、深く
頭を下げた。
「拝承つかまつりました。かたじけのうございます」
「うむ。――飲め」 杯が配られ、盃の触れ合う音が控えめに鳴る。
家臣たちの笑いは歯の奥で止まり、「火の雨」という秀吉の異名だけが、声よりも先にその場を歩いてい
るかのようだった。
喧騒の端で、秀吉――否、健一は伏し目に盃を見つめる。
湯気の奥に、安土の天守がゆらりと浮かんでいた。
(やはり、そうだ。この城は天を仰ぐための塔ではない。天を、下へ引き寄せるための塔なのだ)
帝を迎え、民を慰撫する。武力による支配から、体制による支配へ。
すべては、そのための序章に過ぎない。
(京の儀礼の拍子はこちらに合わせ直す。証明書は勘合も奉書も、織田の印一つに束ねる。その印を、城
門から神社の前まで、一本の筋を通して見せる――)
信長の視線の先にあるのは、もはや“戦国”の世ではなかった。
古い権威を根こそぎ組み替え、新しい絶対的な秩序を据える未来。
その中で自分はどこに立ち、何を選ぶのか。――問われる年が、静かに始まった。
注釈
【1】 慰撫 (いぶ): 人々の心をなだめ、安んじること。ここでは、長年の戦乱で疲弊した領民の負担を軽くし、生活を安定させるための政策を指す。
【2】 普請 (ふしん): 道路、城、堤防などの土木工事のこと。
【3】 無役 (むやく): 領民に課せられる労働奉仕(役務)を免除すること。一種の減税政策。
【4】 関銭 (せきせん): 街道や港などに設けられた関所で徴収された通行税。信長はこれを引き下げる「楽市楽座」政策で、経済の活性化を図った。
【5】 帝 (みかど): 天皇を指す、古くからの敬称。
【6】 行幸 (ぎょうこう): 天皇が外出すること。天皇が京都の御所を出て、臣下の城である安土城を訪れるというのは、信長の権威が天皇に公認されたことを天下に示す、極めて重要な政治的意味合いを持つ出来事だった。




