第171章 ねねとの対話
(1575年9月)安土・羽柴邸
夜の静けさが城下町を包んでいる。湯気が細く立ち上り、虫の音が障子の外で揺れていた。
「お市様【1】との縁談・・本当に、断ってよかったのでしょうか」
ねね【2】が、言葉を選ぶように尋ねた。秀吉は湯呑を置き、静かに答える。
「ねね。わしにとって、唯一の女房はお前だけだ。相手が誰であれ、その替えは効かん」 ねねの目がわ
ずかに見開かれる。秀吉は続けた。
「軍の片肺が半兵衛【3】なら、俺の胸の鼓動はお前だ。二人は特別よ。わしが身代わりに死ねるほどに
な」
部屋の空気が、一拍だけ止まった。
ねねは秀吉の傷だらけの指先をそっと包み込み、まっすぐに見つめ返した。
「あなたが人でい続けようとする限り、私はあなたの傍にいます。何をしようとも、あなたを人間として
信じます」 その時、障子の外で畳が一枚だけかすかに鳴った。
秀吉は一瞬だけ視線を上げると、文机の上の印判を逆さに伏せる。
ねねは何も問わず、湯呑をそっと秀吉の方へ押しやり、指の背で彼の目尻を一度だけ拭った。
それで、すべてが十分だった。
「黒田【4】も石田【5】も、抜け目なく優れておる。だが、半兵衛の場所は別格だ。俺の思考の影とし
て、常に一手先を指し示してくれる。
そしてお前は、俺を“今”この場所に繋ぎとめてくれる錨だ」
「・・その“場所”、私にもずっと持たせていただけますか」
「持っておる。最初からだ」 秀吉は息を整え、低く笑った。
「お市様は、美しい像だ。織田家の印としては、この上ない。だが、わしに必要なのは、拍子を
合わせてくれる生身の人間の息遣いだ。
未来を知るこの頭が非情に傾くとき、俺を人間へと引き戻してくれるのは、お前だけなのだ」 ねねは、
秀吉の手を強く握り直した。
「もし、あなたが“外”へ追い出されそうになったら――その時は、私が内からあなたを守ります」
秀吉はわずかに目を見開き、そして安堵の息を吐いた。
「はは・・やっぱり、うちの女房は日本一強いな」 虫の音が、また戻ってきた。
(印は、こちらから先に置く。拍子で場を揃える。――まずは京の奥からだ)
その夜、秀吉は心に決めた。たとえ天下を得ようとも、ねねと半兵衛だけは決して裏切らぬ、と。
二人こそ、彼を人としてこの世につなぎ止める、唯一の錨であった。
注釈
【1】 お市 (おいち): 織田信長の妹、お市の方。政略結婚により浅井長政に嫁いだが、浅井家が信長に滅ぼされた後は、三人の娘と共に織田家に戻っていた。彼女との結婚は、織田一門に連なるという極めて重要な政治的意味を持っていた。
【2】 ねね: 秀吉の正室。のちの北政所。貧しい身分の頃から秀吉を支え続けた糟糠の妻。
【3】 半兵衛 (はんべえ): 竹中半兵衛のこと。秀吉の軍師として活躍した天才的な策略家。
【4】 黒田 (くろだ): 黒田官兵衛(のちの黒田如水)のこと。竹中半兵衛と並び称される、秀吉のもう一人の天才軍師。
【5】 石田 (いしだ): 石田三成のこと。秀吉が見出した若き才能で、特に卓越した行政手腕で豊臣政権を支えることになる。




