第170章 亀裂の芽
(1575年9月) 安土城
盃を置いたのち、信長はふと口元を歪め、こちらを射抜いた。
「・・のう、秀吉。お市【1】を――そなたの妻とし、織田家の印とせよ」 手が、止まった。
胸の奥で、長島の炎と、これまでくぐり抜けてきた幾度もの死線が、同時に息を吹き返す。
「――は?」
「浅井が滅んで幾年にもなる。身の振り方を決める頃合いよ。
お前ほどの手柄を立てた者なら、釣り合いも取れよう」
声音は静かだったが、試すような重さが畳に沈んだ。
「・・お市様には、すでに三人の姫君がおられますが」
「女子ばかりじゃ。気にするな。むしろ都合がよい。織田の血を、お前に繋いでやるのだ」
言葉の冷たさが、指に挟んだ盃の縁へと移っていくようだった。
妻である、ねねの名が、舌の奥で立ち往生する。
(この話を受ければ、織田家の印に縛られる。だが、断れば――) 短く息を整え、目を伏せた。
「恐れながら、私にはねねがおります。妻は一人で十分でございます」 沈黙。
信長は盃を一度だけ、こん、と高く置き、音を残さず立ち上がった。
「・・そうか」
それだけを残し、衣擦れの音も立てずに奥へと消えた。
控えの間。 杯は置かれたまま、酒は減らず、諸将の視線は宙を泳いでいた。
「・・長いな」
「いや、もう終わった。ただ、噂だけが先に歩いている」
「『火の雨』、『魔物』、『妖術使い』――」
囁きが、名詞の形のまま廊下の陰へと散っていく。 ふすまが開く。
秀吉が一礼して歩み出ると、誰も目を合わせない。
「・・お待たせいたしました」
返事はなかった。重くなった空気だけが、応えた。
秀吉は微笑を崩さぬまま、その間を通り過ぎる。背中の内側で、ひとつだけ覚悟を固めた。
(空気に負けぬには、印をこちらから置くしかない。拍子で場を揃え、お札で言い方を統一する。まずは
――京の奥からだ) 戦は、まだ終わっていない。
盃の余熱が、指先に残っていた。そこで、新しい戦が静かに始まった。
注釈
【1】 お市 (おいち): 織田信長の妹、お市の方。戦国一の美女と謳われた。政略結婚により浅井長政に嫁ぎ三人の娘(茶々、初、江)をもうけたが、浅井家が信長に滅ぼされた後は、娘たちと共に織田家に戻っていた。彼女との結婚は、織田一門に連なることを意味する、極めて重要な政治的意味合いを持っていた。




