第169章 褒章と静謀の刻
(1575年9月) 安土城
秋風が安土の石畳を吹き抜け、天守の影が長く伸びていた。
大広間は静かに張り詰め、戦後の褒賞を与える儀式が始まった。
「羽柴筑前守【1】、和泉一国【2】二十万石を加増する」
どよめきが、波のように広間を走った。
下から上がってきた猿が、ついに大国を手にしたのだ。
「明智日向守【1】、丹波・山城を安堵。宗論の和睦、見事であった」
「滝川一益、若狭【2】を安堵。退路と兵糧道を断ちし功、大なり」
「佐久間信盛、出雲口【2】での持久の手腕を認め、十万石を加増」
「柴田勝家、越前の守備と越中への備え、五万石を加増」
その他、忍者や密偵、補給部隊の者らに金子や感状を与えるよう命が飛ぶ。
太鼓は鳴らず、朱印を押す音だけが大広間に乾いて落ちた。
将たちが順に礼をして、退出していく。
そのとき―― 「羽柴、残れ」 襖が閉ざされ、部屋の空気が一段と深くなる。
奥座敷。障子越しに高い梁が見え、杯の縁に灯りが揺れていた。 「ようやったな」
信長は盃を置き、こちらを真っ直ぐに射抜いた。
「お前がいなければ、謙信も毛利も、いまだ尾を引いておったろう。――して、“未来”は見えたか」 胸の
うちが、一拍大きく跳ねた。
「はっ。されど、まだ整地が必要です。この国は、なお戦の後の荒れ地でございますゆえ」 短い沈黙の
のち、信長の口元にうっすらと笑みが浮かぶ。
「ならば、お前にもう一つ任せる。次は“京の奥”だ」
「・・朝廷、でございますか」
「その先よ。座る者は代わる。その座る“型”そのものを、こちらで決める」 言葉は淡々としていたが、そ
の底にある意志は鋼のように硬い。
武力で天下を平定したのち、次はその支配体制を盤石にするつもりだ――その眼差しは、古くからの権威
の根を掘り返すような、冷徹さを帯びていた。
「お任せください。信長様の世を、下から支え申し上げます。いかなる難儀も、この秀吉が切り拓いて
みせましょう」 信長は、さらに声を低めて告げた。
「密命を三つ。
一、宮中の儀礼や式次第を、我らの流儀に書き直せ。
二、市札・勘合・奉書【3】といった証明書を、織田の印一つにまとめよ。
三、太鼓の音頭で、国中を動かせようにせよ。
――武の後には、制を置く」 秀吉は深く頭を垂れた。
「幸いにも武田を平定したことで、信長様の天下が見え始め、例の信用金庫も順調に機能し出しました。
これからは武力・財力ともに、ご期待に応えられると存じます」 信長は何も返さない。
ただ、杯を静かに掲げた。
褒賞の儀は終わり、静かなる謀議が始まる。
夜の安土に、紙と拍子が支配する新しい時代が、音もなく芽を出していた。
注釈
【1】 筑前守 (ちくぜんのかみ) / 日向守 (ひゅうがのかみ): 朝廷が与える官職名(国司)。筑前は現在の福岡県西部、日向は宮崎県にあたる。実際にその国を支配する権限はないが、大名にとっては自らの格を示す重要な称号だった。
【2】 和泉 (いずみ) / 若狭 (わかさ) / 出雲口 (いずもぐち): いずれも日本の旧国名、またはその一部。和泉は大阪府南部、若狭は福井県南部、出雲は島根県東部を指す。これらを領地として与えられることは、大名として大きな力を持つことを意味した。
【3】 市札 (いちふだ) / 勘合 (かんごう) / 奉書 (ほうしょ): いずれも許可や証明を示すための文書や札。市札は市場での営業許可証、勘合は正規の貿易相手であることの証明書、奉書は上位者からの命令書など。これらを織田家の朱印一つに統一することは、経済・外交・行政のすべてを信長の支配下に置くことを意味する。




