第168章 空白の刈り取り
(1575年9月) 安土城
前年天正2(1574)年12月、安土築城は大詰めを迎え、翌年(1575)秋には、その威が畿内一円に及ん
だ。、まず人の心から先に刈り取られていった。
冬の気配が忍び寄る天守から、信長は新たな秩序を見下ろし、羽柴秀吉は止まることなく地図を繰ってい
た。
敵を討つためではない。空いた場所を、埋めるために。
【越後――軍神のいない山】 秀吉は間を置かず越後へ向かった。上杉へ援軍に入る前田利家(権六)に
合流する手筈だったが、斥候は静かにこう告げただけであった。
「・・既に、決しておりました」
上杉謙信の居城であった春日山城【1】の廊下には血の痕が残り、越中との国境からは流れ矢の噂が降っ
てきた。
誰も真実を確かめようとはせず、ただ噂だけがすべてを決していた。
城下の兵は、城門の閂を外し、旗を伏せ、蔵の鍵を差し出した。
「戦う気もないか・・いや、戦えぬのだな」
秀吉は呟いた。天筒火砲の記憶が、人々の戦う気力そのものを先に奪っていた。
【山陰――紙で雨を呼ぶ】
秀吉は西へ転じた。出雲口では佐久間信盛が山名氏を破り、尼子氏【2】が睨みをきかせていた。
しかし、羽柴の軍旗が見えると、尼子の将は静かに膝を進め、筆を持つ手だけを震わせた。
「生きるための道を、書くだけだ」
一方、西国の雄・毛利は矢を交えることを惜しみ、朝廷へ奉書【3】を走らせる。
奉書は墨が乾かぬうちに京へ届き、戦の太鼓は鳴らずに済んだ。
火の恐ろしさを見た者は、紙で戦の雨を避ける術を心得ていた。
【四国――通過で済む戦】
阿波の三好氏はすでに力を失い、島の市は羽柴の札が届くのを待っていた。
秀吉の部隊は、討伐ではなく“通過”した。そして通った後に市の高札を立て、場所代を半額にし、塩を一
合ずつ配る。
兵が去るより先に、市が立つ。空白は、兵よりも紙と塩で埋まっていく。
【関東――会計で和を結ぶ】
関東の北条氏は武田滅亡の報に、即座に徳川と交渉の席を持った。
駿府で交わされた朱印状一枚で、これまでの“戦費”が相殺される。戦うより安い、と誰もが頷いた。
街道筋の軍市は空になり、代わりに勘合【4】と場札が掛けられる。鬨の声より、印判を押す音
の方が早かった。
【安土――地図の余白を埋める手順】
安土の天守に戻ると、秀吉は地図の白い部分に、次々と札を刺していく。
――空白に市の札を立て、場所代を半額にし、塩を一合配る。御用米は蔵へ集め、道は石で固め、川には
堤を築いて治水する。
兵の列を並べるのと同じ手順で、人の暮らしの列を作る。噂は先に走る。ならば、その言い方をこちらが
先に作る。
「羽柴の札が立てば、火は降らぬ」――そう言わせるための、式次第であった。
【結び――“整える戦”】
武田が消え、四国が静まり、関東は会計でひとまず畳まれた。
敵を討つ戦は終わり、国を“整える戦”が始まる。
天守の上で、秀吉は指で海をなぞった。
「残るは・・未来か」
地図はもはや戦の道具ではない。人と紙で埋めていく、国の設計図へと裏返っていた。
注釈
【1】 春日山城 (かすがやまじょう): 越後国(現在の新潟県)にあった上杉謙信の居城。天然の要害に築かれた難攻不落の名城として知られる。
【2】 尼子氏 (あまご し): 出雲国(現在の島根県東部)を拠点とした戦国大名。毛利氏との激しい戦いの末に一度滅亡したが、一族の尼子勝久らが織田信長を頼り、再興を目指していた。
【3】 奉書 (ほうしょ): 上位の者が命令などを書き、家臣がそれに副状を添えて相手に伝える形式の文書。ここでは、毛利氏が戦わずして朝廷(=信長)の意向に従うことを示すための外交文書を指す。
【4】 勘合 (かんごう): 二つに割った印を互いに持ち、それを合わせることで正規の証明とする仕組み。特に日明貿易で使われた勘合符が有名だが、ここでは北条と徳川の間の正式な和睦や取引の証明書を指す。




