第167章 地の利は敵に
(1574年8月) 有賀峠
◆ 風向き変わる
昼過ぎ、空がにわかに翳り、谷の風が不意に背を向けた。
この時刻に風が変わることを、この地を知り尽くした武田は読んでいた。
気象の継ぎ目に合わせ、高坂昌信による背後からの攻撃と、正面部隊の展開を噛み合わせる算段は、朝か
ら仕込まれていたのだ。 砲兵長が叫ぶ。
「逆風だ! 天筒は撃つな! 火が戻されるぞ!」
天筒火砲は、逆風に弱い。秀吉は即座に判断を下した。
「火縄銃と弓と連弩を使え。濡れ幕と水嚢【1】を風上へ回せ。火消し小隊は縄で列を繋いだまま待
機!」
◆ 高坂、襲来
半刻【2】ほど経った頃、背後の森から火薬の匂いを帯びた風が押し寄せた。
「敵襲——後方より!」
斜面の林から、影が間合いを揃えて滑り出してくる。 高坂昌信が率いる、精鋭一千。
「ここは鞍部だ。尾根が“音の陰”を作る」
高坂は角笛【3】を一吹きする。
斥候が指で「二」と示した――補給の駄馬【4】が二十、火薬の樽が三つ。
時刻は、まもなく丑の刻。
「まだだ。拍子の切れ目を待て」
◆ 拍子が千切れる
谷の正面では、武田の太鼓が三・二・三と鳴り響いていた。
——その時、突風で太鼓の間合いが乱れた。
その乱れに呼応するように、背後で角笛がひと声、鋭く鳴る。
刃が、拍子の空白へと吸い込まれるように落ちた。
◆ “散って揃う”包囲
谷筋、鹿道【5】、棚田の畔から、同時に人の列が現れた。
山道に置かれた白い札が合流点を示し、角笛が二度鳴れば右へ、三度鳴れば左へ。
見た目は散り散りだが、実は高低差を利用した三段構えで包囲の輪を閉じようとしていた。
羽柴軍の前衛は、その意図をすぐに見抜く。
「見かけだけで散っているが、向きは一つ――霧の中へ我らを引きずり込む気だ!」
◆ 羽柴の応戦
守備隊は短弓と連弩【6】で応じる。
「肩幅撃ち【7】! 三手のうち一手は囮となって伏せろ――合図を待て!」
矢が浅く降り注ぎ、敵の刃が届く前にその足を折る。
秀吉は砲座に目を向けた。
「簡易火砲四門、林の入り口を短く焼け。面で焼くのだ。側面に安全地帯を築くのだ」 簡易火砲は火の
範囲が狭く距離も短いが、とっさの対応力にの長けている。
濡れ幕が味方側への延焼を抑え、水嚢が類焼していく火を消していく。
林の入り口が一瞬白く閃き、敵の前進を阻んだ。
◆ 風と拍子の綱引き
「太鼓、三——二——三!」
鼓手の手首は縄で軽く締められ、軍全体の呼吸が乱れぬよう律動を刻む。
だが、逆風がその音を攫っていく。
若い兵士が歯を噛み締めた。
「犬が鳴かねえ・・耳鳴りと太鼓の音が、胸の中でぶつかる」
隣の兵が短く返す。
「外で鳴らして、内の鳴動を追い出すのだ」
◆ 背面の刃、正面の抵抗
高坂の部隊が、ついに駄馬の列に襲いかかった。 刃の音は小さく、荷を引く綱が静かに切れる。
荷が崩れ、火薬の樽が三つ、わずかに傾いた。
そこへ連弩が針で縫うように矢を放って敵を食い止め、歩兵が間を詰める。
簡易火砲が二度、三度と息を吐く。林の入り口は焼かれ、逆風がその炎を押し返した。
◆ 刻の支配
武田の正面部隊は、散り散りを装ったまま、包囲の輪を締めてくる。
羽柴の列は、太鼓の拍子を腹に入れ直し、各個撃破の手順を崩さない。
「刃が当たる前に足を折れ――そのまま、続けよ!」
やがて太鼓の間合いが戻り、兵たちの声が、そして目の色が戻ってきた。
「右、囮は伏せろ――一手、遅らせろ!」
◆ 結び(滅びの工程)
駄馬が倒れ、火薬庫が割られ、太鼓が遅れた。 指揮官の声、兵站、そして軍の拍子――その順番で、羽
柴軍の輪は静かに崩れ始めていた。
風は裏切り、火は試され、刃は拍子の空白に滑り込んだ。 有賀峠の霧は、まだ晴れない。
――ただ、滅びの筋道だけが、もう決まっていた。
注釈
【1】 水嚢 (すいのう): 水を入れるための袋。ここでは消火用として用意されている。
【2】 半刻 (はんとき): 江戸時代以前の時間の単位。一刻が約二時間なので、半刻は約一時間にあたる。
【3】 角笛 (つのぶえ): 動物の角などで作られた笛。合戦の合図などに用いられた。
【4】 駄馬 (だば): 荷物の運搬に使われる馬。
【5】 鹿道 (ししみち): 獣道のこと。人が通るには険しいが、山を知る者にとっては抜け道や奇襲経路となる。
【6】 連弩 (れんど): クロスボウ(ボウガン)の一種で、複数の矢を連続して発射できる機構を持つ中国の古兵器。
【7】 肩幅撃ち (かたはばうち): 物語上の架空の射撃戦術。兵士が肩を並べた横隊の幅で一斉に矢を放ち、弾幕を作ることを指す。史実でも「片膝突いての速射討ち」がありましたのでその応用です。




