第166章 天、再び鳴る
(1574年8月) 有賀峠
◆ 嵐の前の静けさ
有賀峠【1】。甲斐と信濃をつなぐこの峠道は、夏の終わりを告げる霧に沈んでいた。
谷を登りきった高台に陣取る武田軍。
信玄は要害の肩に陣を構え、下から登り来る織田・羽柴勢を待ち受ける。
対する羽柴軍は、谷間の傾斜地に天筒火砲【2】の砲座を組んでいた。
濡れ幕と水嚢【3】を風下に回し、音を遮るための帷で陣を囲う。
砲手は無言で火薬を分け、砲弾を装填し、導火線を確認した。
秀吉は地図と地形を交互に見やり、低く呟く。
「尾根の向こうへは、空で越える」
◆ 武田軍、迎撃布陣
峠の向こう側では、馬場【4】・山県・内藤の三隊が谷を挟んで防衛線を敷いていた。
太鼓が、三・二・三と鳴る。兵たちの胸の内の震えが外の拍動に引き出され、一度だけ列が整う。——そ
の刹那、兵たちの耳に、あの轟きが蘇った。
「・・また“空の火”が来るのか」
「夜明け前には、あの音が鳴るぞ」 湿りの深い谷を選び、火薬庫は分散させる――信玄の教え通りに備
えはあった。しかし、人の耳は理屈よりも先に揺れる。
◆ 夜明け前、再びの閃光
空が白み始めた。
「――天筒、撃て」
第一陣五門が咆哮する。
空気が裂け、火を孕んだ黒い弾丸が尾根の肩を越え、空中で炸裂した。
紅蓮の火の雨が半径百メートル余りに降り注ぎ、木々が燃え、倉が炎に包まれ、狼煙台【5】が燃え上が
る。
地の鳴動が谷を満たし、武田の太鼓の拍子と激しくぶつかり合った。
「犬が・・鳴かねえ」
若い兵士が歯を食いしばる。耳鳴りと太鼓の音が、胸の奥で綱引きをしていた。
◆ 武田軍、混乱と“整えられた退き”
「落ち着けぇっ! 敵は少数だ!」
山県昌景が声を張り上げる。
それでも列は、一見すると散り散りになりながらも、一つの向きに揃って霧の中へと退き始めた。
「合図通り、霧の中へ退け――」 太鼓の間に合わせた、計算された退却。
混乱を装いながら道を譲り、谷の奥へと羽柴軍を誘い込む。
内藤昌豊は部隊の再集結を試みるが、第二波の轟音が号令をかき消した。
◆ 密かなる包囲:高坂の奇策
その頃、秀吉軍の背後。谷を迂回する細道に、影があった。
高坂昌信が率いる、精鋭一千。
「ここは鞍部だ。尾根が“音の陰”を作る」 音の届きにくい地形に入れば、鼓膜は守られる。
高坂は斥候を走らせた。指で「二」と合図を出す。
補給の駄馬が二十頭、火薬の樽が三つ。時刻は丑の刻に差し掛かろうとしていた。
「まだだ」
森の匂いの中、彼らは太鼓の拍子の切れ目を待つ。
◆ 秀吉、静かに命じる
秀吉は風を読む旗を見て頷いた。
「第二陣、低く短く。炸裂高度は先ほどの一番弾の半分。火の雨ではなく、衝撃の波で狼煙台の根元を断
て。風下は濡れ幕と水嚢で延焼を抑えろ。火消し小隊、縄で互いを繋いで走れ」
砲手たちは導火線を短く詰め直し、砲座の周りに濡れ幕を張り巡らせる。
◆ 第二の鳴動
「――撃て」
第二陣が低く唸り、炸裂音が地を這った。
火の花ではなく、圧力の拳が走り、狼煙台の根太が折れる。
音は再び谷を満たすが、湿気が炎の広がりを鈍らせ、太鼓の拍子が兵たちの呼吸を繋ぎとめていた。
「間・・・二・・・三」
鼓手の手首は縄で軽く締められ、軍の呼吸は乱れない。
◆ 刃の入り際【6】
霧の裏で、小さな刃の音がした。 駄馬の綱が、音もなく断ち切られる。
荷が崩れ、火薬の樽がわずかに傾いた。
その瞬間、太鼓の間がわずかに伸び、軍の拍子に小さな空白が生まれた。
火は地を焼き、心を折り、軍を壊す。だが、まだ戦いは終わらない。
信玄は動かぬ。
だからこそ――この“火”が持つ本当の意味を、奴に見せつけねばならぬ。
静かなる刃が、音の陰から迫っているとも知らずに。
注釈
【1】 有賀峠 (あるがとうげ): 信濃国(現在の長野県)にあったとされる峠。物語上、甲斐と信濃を結ぶ武田軍の重要な防衛線として設定されている。
【2】 天筒火砲 (てんづつかほう): 物語上の架空の大砲。ここでは、砲弾を標的上空で炸裂させ、広範囲に焼夷効果をもたらす、現代のエアバースト弾のような特殊な機能を持つ兵器として描かれている。
【3】 水嚢 (すいのう): 水を入れるための袋。ここでは消火用として用意されている。
【4】 馬場 (ばば): 馬場信春のこと。武田四天王の一人で、数々の戦で活躍した猛将。
【5】 狼煙台 (のろしだい): 敵の襲来などの緊急事態を、煙や火を使って遠くへ知らせるための施設。山頂など見晴らしの良い場所に設置された。
【6】 刃の入り際 (はのいりぎわ): 刀の刃が相手に触れる、まさにその瞬間のこと。転じて、攻撃が開始される決定的な一瞬を指す文学的な表現。ここでは、高坂昌信の部隊が待ち伏せから攻撃に移る、絶好のタイミングを指す。




