第165章 火の音に、武は揺らぐ
(1574年7月後半)
その日、信濃国【1】・吉岡城の会議座敷は、湿り気を帯びた静けさで満ちていた。
畳に広げた地図の上には、焦土と化した小城や村の名が朱で重なり、脇には「天筒火砲」に関する聞き書
きが積み上がっている。
紙は汗を吸い、その角は柔らかく丸まっていた。
山県昌景【2】が拳で机を鳴らす。
「これ以上、逃げてばかりでは国をくれてやるのと同じぞ! 離反する者まで出ておる!」
怒りが先に立つ。精鋭「赤備え」【3】の誇りが、得体の知れぬ火の音に踏みにじられているのだ。
「やつらの“火”は、ただの火ではない。音で兵を潰す魔性の業だ。・・だが、破れぬものではない!」 高
坂昌信【4】は首を横に振った。
「敵は山を撃っております。砦でも平野でもなく、我らの心を砕くために撃っている。我らがどう立つか
が問われておるのです」
山県が食い下がる。
「だからこそ討つべきだ、今すぐに!」
横から内藤昌豊【5】が言った。
「怯えに任せて出陣すれば、こちらが先に折れる。しかし、黙して焼かれる者に未来はない」 座敷の
奥、簾が揺れ、武田信玄が杖をついて進み出た。
病を得て久しいが、その目は少しも濁っていない。地図の前に立つと、短く言った。
「――火を討つな。火の使い手を討て」
三人の将が息を呑む。信玄の指先が、地図の尾根と谷をなぞった。
「羽柴の後方を焼け。山県・内藤は谷道を、高坂は尾根伝いに進め。夜半九つ時【6】に太鼓を二打、尾
根では火打石三度の閃きで合図とせよ。
谷での合流は丑三つ時【7】。遅れた隊は捨てよ」
言い切って、さらに淡々と続ける。
「湿気の深い谷を選べ。夜露と川霧で音が鈍る。火薬庫は段切りにして分散させ、導火線は短く。野営は
疎らにし、囮の火を先に焚け。そして太鼓は、三・二・三の順で打つ。兵の胸の震えを、外の音
で上書きするのだ」 山県が眉をひそめる。
「太鼓で、火の音を・・?」
信玄は鷹のような目で山県を射抜いた。
「空気は音で揃う。ならば、揃うように、こちらが鳴らすのだ。夜半の太鼓は軍の呼吸よ。兵自身の鼓膜
の震えを、軍全体の拍動に繋げてやれ」
高坂が頷く。
「谷筋には水をせき止める堰を二本。湿りが増せば火の走りは短くなる。濡れ帷子【8】と土嚢を先行班
に持たせます」
内藤が続ける。
「煙の幕を上げます。松明を束ねず、間をおいて焚く。敵の視界を割り、音だけをこちらの拍子に合わせ
る」
信玄はひと呼吸置いて、最後の言葉を打ち込んだ。
「――火を恐れるな。恐れを、仕切れ」 命が、座敷の空気に沈み込むように染み渡った。
三将が下がると、書記が素早くその言葉を木簡【9】に写していく。
宵。
指令は矢とともに諸隊へ散った。軍目付は火薬庫を小分けにし、湿らせた藁を足場に敷く。
膠で固めた濡れ幕が荷車に積まれ、鼓手は縄で手首を軽く縛り、その拍動を体に覚え込ませ
る。
「鼓は三・二・三、間を深く取れ。胸に入り込んだ音を、外へ追い出せ」
鼓手頭の声は低く、よく通った。 「犬が、鳴かねえ夜だな」
若い足軽が言う。
隣の男がうなずいた。
「胸の内側だけが、どくどくと鳴っている。だから、外で鳴らしてくれるんだ」
太鼓が短く三つ、間、二つ、間、三つ。
谷は湿り、音は吸われ、それでも拍動だけが骨を叩いた。
吉岡城の座敷では、夜番の灯が小さく揺れる。
山県は具足の紐を締め直し、高坂は地図に印の粉を落とす。
内藤は短刀で爪を整え、己の手の震えを見ないようにした。
幕の陰で、信玄が低く問う。
「噂の向きは、どうだ」
書役が答える。
「西から北へ。“天を割る火”の噂は尾ひれを増やしておりますが、見た者よりも、伝え聞いた者の方がよ
り怯えております」
信玄は鼻で笑った。
「ならば、こちらも音で返す。言い方を作り、拍子で覚えさせるのだ。
『鼓の間に入れば、火は短くなる』――そう言わせろ」 高坂が一礼する。
「尾根での合図は手勢に任せてあります。火打石三度――星の瞬きに紛れさせます」
内藤が口を開く。
「谷での合流に遅れた隊は?」
「捨てよ。遅れは恐れを増すだけだ。斬ってでも拍子を守れ」
信玄の声は淡いが、濁りがない。
「火ではなく、頭を焼け。羽柴の後背を、拍子の切れ間で叩け」 夜が深まる。
谷の下では、囮の火が間をおいて燃え、湿った幕が土の匂いを吐き出す。
火薬庫は三方に分けられ、導火線は短く結び直され、兵は密集せず、疎らに配置される。
太鼓がまた、三つ、二つ、三つ。 胸の内の鳴動が、外の拍動に吸い上げられていくのが分かった。
若い足軽は、ふっと息を吐いた。
「・・これなら、行ける」
隣の男が囁く。
「行けるように、鳴らしてくれているんだ」 その頃、座敷に残った古参の一人が、帳面を閉じて呟い
た。
「――敵と戦う前に、味方が潰れるやもしれぬと、今朝までは思ったが・・」
灯が揺れ、遠くで鼓の間が伸びる。
「拍子が整えば、怖れは外へ出る。あとは、敵の頭を焼けるかどうかだ」 信玄は目を閉じた。
空気は音で揃う。揃うように、こちらが鳴らす。
そして、火ではなく、その使い手を討つ。
それが、この夜の結びであった。
注釈
【1】 信濃国 (しなののくに): 現在の長野県にあたる旧国名。吉岡城はその領内にあったとされる城の一つ。
【2】 山県昌景 (やまがた まさかげ): 武田信玄に仕えた重臣で、武田四天王の一人。武田軍最強と謳われた騎馬隊「赤備え」を率いた猛将として知られる。
【3】 赤備え (あかぞなえ): 鎧や旗などの武具をすべて赤色で統一した部隊のこと。戦場で目立ち、精鋭部隊の証とされた。山県昌景の赤備えは特に有名。
【4】 高坂昌信 (こうさか まさのぶ): 武田信玄に仕えた重臣で、武田四天王の一人。春日虎綱としても知られる。慎重な戦いぶりと情報収集能力に長けていたとされる。
【5】 内藤昌豊 (ないとう まさとよ): 武田信玄に仕えた重臣で、武田四天王の一人。武勇だけでなく、優れた内政手腕と人格で知られた。
【6】 夜半九つ時 (やはんここのつどき): 江戸時代以前の時刻の表し方で、おおよそ午後8時から10時頃を指す。
【7】 丑三つ時 (うしみつどき): 夜中を牛の刻とし、それをさらに四つに分けた三番目の時刻。おおよそ午前2時から2時半頃を指し、古くから草木も眠る不吉な時間とされた。
【8】 濡れ帷子 (ぬれかたびら): 水で濡らした麻の着物。ここでは、火を防ぐための簡易的な防火服として用意されている。
【9】 木簡 (もっかん): 紙が普及する前に、文字を記すために使われた短冊状の木片。




