第164章 火の前に、影は消える
(1574年7月)
神明砦【1】を越えた一帯は、焼け跡と沈黙だけが支配していた。
かつて小作民の炊事の煙が昇り、牛が鳴いていた谷には、いまや瓦礫の中で、黒焦げになった石仏が倒れ
ている。
◆ 無人の道
「・・また、か」 清正が呆れたように言いながら、槍の柄で焼けた門を払い除けた。
その向こうにあったはずの屋敷も、畑も、今は影すらない。
「先に進むほど“人”がいない。これはもう・・撤退ではない。心の逃亡だ」 三成は頷いた。
「焦土【2】は、もはや単なる戦術ではありませぬ。敵将たちは“戦意”ごと、地に埋めて消し去る気のよ
うです」
◆ 恐怖が先に進む
伊賀の者が持ち帰った情報によれば―― 武田の小城や番所では、「天筒火砲の音を聞いた者たち」が、
自ら拠点に火をつけ、逃げていくという。 秀吉は地図を広げ、静かに言った。
「音が戦っているのだ。我らの兵より先に、“火の記憶”が進軍している」 清正が苦笑する。
「戦をせぬまま、勝ってしまいそうだ。・・まるで悪夢のようだな」 彼の声には、武人としての興奮
と、この超常的な状況への困惑が混じっていた。
◆ 信玄の動きはない
敵将・武田信玄は、なお動かない。山の中で何かを待っているのか、あるいは、策を練っているのか――
そう思われたが、現実には、「何も起きていない」という報告だけが届き続けていた。
(本来の正史では武田信玄の死去は1573年1月、三方ヶ原の戦いの後の西上作戦中に持病が悪化で同年5
月に死んでいるはず。かなり変わってしまっている。これは単なる戦況の変化だけでなく信玄の心の持ち
様も変えてしまったからだろう。)
「・・もはや動けぬのでは?」
「あるいは、“動かぬ”こと自体が策かもしれません」
三成の言葉に、秀吉は一言だけ返した。
「よし、それなら――我らが“次”を動かす番だ」
注釈
【1】 神明砦 (しんめとりで): 物語上の架空の砦。妻籠城の周辺に位置する、武田方の防衛拠点の一つ。
【2】 焦土 (しょうど): 敵に利用されるのを防ぐため、退却する際に自軍の土地や施設を焼き払う戦術のこと。ここでは、武田軍が恐怖により、命令なくして自ら拠点を焼き払って逃げている状況を指す。




