第163章 火より先に、心が退く
(1574年6月)清里・大平峠
天筒火砲の火が空を裂いてから、一年が過ぎた。
夏草は膝を隠すほどに伸び、砲道は清里【1】まで届いていた。
まだ道半ば――砲座の脇で清正が汗を拭い、舌打ちする。
「・・ここまで来て、ようやく“半分”か」
秀吉は目を細め、遠い稜線を測った。
「半分まで来たのではない。奴らの心が、半ばまで退いたのだ」
【無抵抗の城】
山城、峠の砦、見張り小屋――いずれも門は開け放たれ、縄は切れ、槍掛けは空。
土間には炭と化した梁の匂いが残り、食糧庫は自ら火を放った跡を黒々と残している。
三成が帳面を閉じ、静かに告げた。
「当方が手を下すより先に、向こうが自壊しております。兵は去り、記録も焼き捨てられております」
清正は煤けた柱を拳で叩いた。
「火は兵を焼くものだと思っていたが・・今の火は、人の心を焼き減らしてやがる」
【民の姿もない】
谷あいの畦道に人の踏み跡はなく、風だけが夏草の穂を揺らしていく。
家々から炊事の煙は上がらず、井戸には蓋。犬の鳴き声すら聞こえない。
土木頭の堀井が、空の水汲み桶を覗き込み、顔をしかめる。
「人がいねぇのは、補給が死んだのと同じでさァ。火は通せても、“暮らし”が通れねぇ」
秀吉は草を一握り引き抜き、その土の湿りを確かめた。
「ならば、“暮らし”を作る。人が戻れる地を、こちらが先に築くのだ」
【砲道の護り】
工兵の列は、乾いた灰色漆喰【2】の板を継ぎ、楔で押さえ、谷の曲がりを石で補強していく。
周囲の警戒を緩めることはない。火縄の匂い、弓弦の軋み、連弩【3】の殺気。
忍び除けの毒霧玉は草陰に潜み、仕掛け罠の紐は山影へと延びる。
斥候の影が一度だけ差した。だが、道に刻まれた傷は、壊されるより早く埋められていく。
火を撃つ前に、通すべき火がある――工兵たちはそれを知っていた。
【秀吉の眼】
三成が控えめに進言する。
「戦わずして進むほど、背後の土地が空洞と化します。兵糧も労力も、いずれ不足をきたしましょう」
秀吉は頷いた。
「戦は、ただ奪うだけでは続かぬ。撃つ場を守り、通す道を築き、人の営みを呼び戻す。
・・それが、人の世における最も道理に適う勝ち方というものよ」
言い捨てると、指で地図に線を引く。砲道の先、谷と谷が交わる地点に丸をつけた。
「ここに戻りの市を開く。井戸を掘り、仮の蔵を建てよ。
兵と民が混じる場を先に作れば、敵は村を焼けぬ。焼けば、自分たちの明日の飯を失うからだ」
清正が目を丸くした。
「戦の真っ最中に、市を開くと申されるか・・?」
「戦は終わらせるためにするものだ。終わらせるには、次に何を建てるかを、先に見せてやらねばなら
ぬ」
風が峠を抜け、焼け跡の灰をさらっていった。
火が進むより一足先に、人の心が戻るための道を、彼らは敷こうとしていた。
【1】清里:信濃南部の要点。砲道計画の中継拠点。
【2】灰色漆喰:火山灰・砂利・消石灰を混ぜて固化させた敷設材。
【3】連弩:連射機構を備えた弩。近距離の制圧と警備に運用。




