第162章 動かぬ時、燃えぬ火
(1574年6月)回想
【1573年12月:雪の封鎖 】
初雪が、山路を白く閉ざした。
車軸は凍りつき、坂道は「固く、重く、滑る」。
それでも、彼らは完全に止まってはいなかった。
恵那での冬季演習で試作された綿入れ外套【1】が、ここで真価を発揮する。
厚い麻布に油と蜜蝋を染み込ませた生地は雪解け水を弾き、裾に設けられた二つの切れ込みが、膝の自由
な動きを可能にした。
甲冑の上からこれを被れば肩の熱が逃げにくく、縫い目には蝋が塗り込まれて水の侵入を阻む。
手には麻の手甲と薄い革手袋、顔は布製の面頬で覆った。
火縄銃の火皿【2】と導火孔には油紙の雨覆いをかけ、火薬角【3】は帆布の袋に収めて懐へ。
弓隊は、脂を染み込ませた予備の弦を携行した。
そして、足こそが要であった。
油紙で内張りした足袋【4】とその替えを持つことは絶対とされ、濡れた足袋は交代所で即座に交換され
た。
見張り所には吊り下げ式の乾し棚と焚き火、足洗い用の桶が置かれ、布と藁で足を挟んで乾かす“挟み乾
き”という方法が徹底された。
荷車の芯金には獣脂を塗り、焚き火で温めてから差すことで、車輪の凍りつきをなだめる。
セメント袋と火薬箱は帆布で包み、その端を蝋で固く留めた。
清正が白い息を払い、短く言う。
「・・これなら、まだ進める」 誰も返事はしない――だが、誰一人として倒れない。
装備が道を一寸ずつ広げていく、その手応えだけが隊の背中を押していた。
【1574年1月:黙々の鍛錬 】
動けぬなら、作ればよい。
砲座は解体と組立が繰り返され、楔の表面が削り直される。
火薬工房では、湿気に鈍らないための新しい配合が、夜更けまで試されていた。
火薬樽は内側に薄い和紙の袋を入れ、外は帆布で巻き、継ぎ目に蜜蝋を流し込む。
導火線は乾燥させた筒に吊るして保管し、携帯する際は懐の布袋に入れた。
指はかじかむ。
だが、綿入れ外套の内ポケットに仕込んだ小さな温石【5】が、火皿や撃鉄を扱う指の感覚を呼び戻し
た。
弓隊は予備の弦を腋で温め、鉄砲隊は火薬を計る薬匙と火蓋を別々の革袋に納めて凍り付きを避けた。
三成は帳面を閉じながら、言う。
「この停滞を記録せよ。止まっている時こそ、次が動くのだ」 止まった一刻が、次に迷わぬための“部
品”へと変わっていく。
【1574年2月:耳を澄ます日々】
敵も来ず、我も動けず。戦線を渡るのは、風の音と火鉢の燃える音だけ。
伊賀の者たちは夜毎、雪面に麻縄の目印を伏せ、鈴のない合図旗を立てて静かに戻ってくる。
「動きなし」。それを示す無音の報告こそが、一番の糧であった。
見張り所では、足袋の交換時刻を砂時計で管理し、足指の血色を“色札”で見比べては凍傷寸前の者を互い
に確認する。
「足は生きているか」――合言葉のようにそう交わすと、焚き火の側で油紙の足袋がぱりぱりと乾く音が
した。 兵の誰かが呟く。
「・・武田方も、見えぬ火に怯えながら“待っている”のだろうな」 燃えぬ火は、両軍の陣営を等しく温
め、等しく怯えさせていた。
火は燃えていない。だが、確かにそこにある。 その在り方を、誰もが学んでいた。
【1574年3月:火を隠して春を待つ 】
梅が香り、川が薄氷を破って動き出す。
秀吉は犬居【6】の陣に戻り、車輪の楔を総点検させた。
芯金には新しい獣脂が塗られ、車台の揺れ止めが一本ずつ締め直される。
綿入れ外套は縫い目の蝋を差し直し、雨覆いの油紙は折り癖を確かめて交換された。
火薬角は春の湿気に備えて布袋を新調させ、弓隊には乾燥筒の保管場所の変更を指示した。
「戦は、火の速さだけでは決まらぬ。火を“待てる者”が、火を使いこなすのだ」 待つ間に、燃えぬ火を手
入れする。
内に潜む熱を、決して逃がさぬように。
【現実へ戻る 】
焚き火の芯が弾け、秀吉は目を開いた。
冬の冷えは去った。
だが、あの燃えぬ火――装備、手順、合図、記録――は、今も部隊の内側で静かに燃え続けている。
三成が近づき、低く告げた。
「殿、明日には飯田に抜けます。ここからが、本当の戦になりましょう」 秀吉は微笑んだ。
止まるべき時に止まり、備えるべきを怠らなかった者だけが、火を本当の意味で走らせることができる。
冬の間に拾い集めた一寸の道が、明日の戦の一里を開く――そう確信して。
注釈
【1】 綿入れ外套 (わたいれがいとう): 防寒のために綿を詰めた、マントのような上着。物語ではさらに油と蝋で防水加工を施した、先進的な装備として描かれている。
【2】 火皿 (ひざら): 火縄銃の部品の一つで、点火用の火薬(口薬)を乗せる皿状の部分。ここが湿ると不発の原因となる。
【3】 火薬角 (かやくづの): 火薬を入れて携帯するための、動物の角などで作られた容器。
【4】 足袋 (たび): 日本の伝統的な履物で、足に直接履く衣類の一種。現代の靴下にあたる。
【5】 温石 (おんじゃく): 石などを温めて布に包み、懐中に入れて体を暖める道具。カイロのようなもの。
【6】 犬居 (いぬい): 遠江国(現在の静岡県西部)の地名。秋葉街道沿いの要衝であり、信濃へ向かう上での重要な拠点だった。




