第160章 火の道、再び
(1573年7月末)飯田城跡
雨が、ようやく上がった。
長きにわたる梅雨は、火薬を湿らせ、道を泥に沈め、兵の心を腐らせていた。
だが、その朝――蝉が鳴き始めた刹那、秀吉は立ち上がった。 「――火を通す道を、作れ」
【再出発の号令 】
飯田城の跡地にて、秀吉は家臣たちを前に宣言した。
「天筒火砲は、もはや単なる“火”ではない。我らが刻む“戦の言語”だ。
しかし、どれほどの言葉も、伝わらねば意味をなさぬ。火を伝えるには、まず道が要る」 清正が首をひ
ねる。
「道と申されましても、雨が降ればまた泥濘よ。車輪が嵌まるだけでは・・」 秀吉は地面
を指し、力強く言い放った。
「違う。“土の道”ではない、“石の道”をだ。――山を削り、谷を埋め、砲を支える道そのものを築く。戦
のための街道をな」
【灰色漆喰と“火のための技術”】
墨俣から呼び寄せられた石工と土木衆が集められた。秀吉が彼らの前に披露したのは、犬山の水車工房で
生産されたばかりの新素材であった。
「灰と砂利を混ぜ、石灰水を加え、水車で練った硬化材――名付けて灰色漆喰【1】。乾けば石のように
硬くなり、水にも崩れぬ。これならば、砲の車輪も沈むまい」
三成はその板状の塊を撫でながら、思わず感嘆の声を漏らす。
「・・まるで、石に戻った土のようですな」 秀吉は笑った。
「火を撃つ者が、土に足を取られる道理はない。“火を使うための大地”を、こちらが先に作るのだ。信玄
が地の理で来るならば、こちらは地そのものを造り変えるまでよ」
【動き出す“火の道” 】
その日より、軍勢の半数が道づくりに従事した。
鍬を握る兵、土を背負う農民、寸法を測る工匠たち。
道は、まるで血脈のように前線へと伸びていく。
荷車の鉄輪化
膝下までの石畳舗装
雨水を逃がす側溝の掘削
川には浮橋、谷には渡し筏
灰色漆喰はその都度、現場で練られ、敷き詰められ、天日で乾かされた。
時に乾きが遅れ、亀裂が入ることもあった。予め割れ目を入れておいても完全とはいかなかった。
だが、そのたびに石工が配合を変え、改良が重ねられていった。
【民の視線 】
山間の村から出てきた老婆が、兵士に一本の鍬を差し出して言った。
「・・この道で、焼けた村がまた息を吹き返すのなら、わしのこの腕も使ってくだされ」 一人の農夫
が、整地されていく道を眺めながら呟く。
「この道は、戦が通る道じゃ・・だが、いつか、わしらの米が通る道になるかもしれん」 秀吉はその声
に、静かに微笑んだ。
「そうだ。この道が焼けぬ限り、戦は続けられる。だが、焼けた先に道が残っておれば――人はまた、生
き直せる」
【次なる戦場へ 】
火の道が、山を越えて伸びていく。
それはただの土木工事ではなかった。
火という力を最大限に活かすための、新しい戦争技術。
武田の“地の理”に対し、人工の“火の理”で応える、逆転の道づくりであった。 三成が囁いた。
「この道は、まるで血管のようですな。火が流れ、噂が走り、人が動く・・」 秀吉は地図を指す。
「次は・・天竜川【2】】沿いだ。火と道を同時に通す。“火の帝国”を、ここから始める」 火はまだ撃た
れていない。しかし、その火を通すための「道」は、すでに動き始めていた――。
注釈
【1】 灰色漆喰 (はいいろしっくい): 物語上の架空の素材。石灰に砂などを混ぜて作る漆喰をさらに発展させ、水硬性(水と反応して固まる性質)を持たせた、現代のセメントやコンクリートに近いものとして描かれている。
【2】 天竜川 (てんりゅうがわ): 長野県の諏訪湖を水源とし、静岡県を通って太平洋に注ぐ川。伊那谷を流れるこの川沿いの道は、信濃と遠江・三河を結ぶ重要な交通路であった。




