第159章 沈む砲、伸びる影
(1573年6月末)秋山街道
火は、動かない。
その判断を下したのは、武田信玄であった。
【信玄の策動と地の理】
秋山街道【1】の山並みが湿り気を帯び、山霧が谷筋を這う頃、信玄は意図的に前線を後退させた。
砦を無人と見せかけて焼き払い、街道をわざと蛇行させ、川に橋は架けず、補給所はすべて奥山へと撤退
させる。
彼はその動きを静かに語った。
「奴の火は、一度撃てば止まる。だが、こちらの補給は止まずに流れ続ける」 山県昌景は苦笑しながら
答える。
「火では勝てずとも、飯と水では勝てますな」 信玄はうなずいた。
「その通りよ。あの砲こそ、敵の足枷。山道において、重き物は死を呼ぶ。やがて湿り、泥に沈み、燃え
ぬまま終わる」 彼らは火を前提としながらも、地と水の理屈を信じた。
火を封じ、補給を絶ち、重い装備に屈服させる戦い。
沈んでいく砲列の先に、火の影が薄れていく構図が見えていた。
【秀吉の違和感と削られる前線】
秋山街道を進む秀吉軍もまた、異様な静けさに包まれていた。
城はそこにあるのに、守備兵はいない。
砲を据えようとすれば、敵は姿を消している。
衝突は起きないのに、砲の運搬速度だけが確実に鈍っていった。 三成が報告する。
「運搬兵に、疲労者が多数出ております。雨水とぬかるみで、砲台の設置も難航しております」 清正は
舌打ちしながら言った。
「相手は、動かぬ敵ではない。完全に我らを見切っておる。戦ってさえおらぬのに、我らだけが摩耗して
いく」 泥の轍に沈みかけた砲の車輪を見つめ、秀吉は低く呟いた。
「――これは、退きながら勝つ戦か」
彼の言葉は、これまでの火の論理に疑いを投げかけるものであった。
「火には抗わず、ただ受け流し、最後に“道”を奪う・・。やるな、信玄。火の理屈ではなく、地の理屈で
来たか」 その場で秀吉は命じる。
「飯田【2】まで戻る。全砲、再移動させよ。梅雨が明けるまでは、一歩も前へ出るな」 清正が驚きの声
を上げた。
「殿、退くと申されるか!」 秀吉は首を振る。
「退くのではない。火を守るのだ。この雨で火薬が湿れば、ただの鉄塊よ。山に埋もれた火に、何の力が
あるというのか」 三成も頷いた。
「敵の狙いが“砲”そのものであるなら、砲を動かさぬことこそが、最善の反撃にございます」 火は強い。
だが、地と水もまた、火を包み込む。武田の地は、火を撃たせぬ戦いを選んだ。
秀吉は、火という切り札を腐らせぬために、戦わぬ決断を下した。
彼の心には、冷徹な合理性と、未来を見据える先見性とが交錯していた。
決意した直後、信長へ現状報告と長期戦になる見込みをしたためるのだった。
注釈
【1】】 秋山街道 (あきやまかいどう): 信濃国(現在の長野県)の飯田と、甲斐国(現在の山梨県)の甲府を結んでいた古道。武田信玄が軍用道路として整備したとされる。
【2】 飯田 (いいだ): 信濃国南部に位置する、伊那谷の中心都市。武田信玄の信濃支配における重要な拠点の一つ。




