第158章 火の影、動き出す
(1573年5月末)大平街道
火はまだ撃たれていない。
しかし、“火が撃たれるかもしれぬ”という気配だけで、山は緊張に包まれていた。
秀吉の砲陣は、妻籠城の次なる目標を大平峠【1】に定めていた。ここを越えれば
飯田城、そして秋葉街道を通じて諏訪・甲府方面への補給路が開ける。
しかし、その前に――武田軍が静かに動き出した。
【 山県昌景の奇襲】 夜陰が山を濡らす頃、山県昌景【2】は百五十の精鋭騎馬と山岳斥候隊を率いて、
密かに山道を駆け上がった。
目指すは、砲陣の裏手。
砲を固定し、迎撃態勢にある秀吉軍の“背中”を突くのだ。
「動かぬ者こそ火に焼かれる――動く我らは火を飲む」その言葉を胸に、忍び足で山霧を抜け、枯れ枝の
軋みを避けながら。
夜の闇の中、斥候は峠の背後にある小径から裏道を辿り、一部隊が補給路に、別働隊が小屋へと接近す
る。
最初の斥候が軽く焚火をおこし、見張りをおびき寄せた。
警戒が逸れたその刹那、突撃が始まった。
崖の縁、岩の隙間、倒木を跨ぎながら、斬り込みと妨害工作を展開する山県の兵たち。
砲音より早く、光より早く。火に先んじて動く、影の刃であった。
【情報戦:内藤昌豊の策略】
同時に武田陣営では、情報工作が進んでいた。重臣・内藤昌豊【3】は、火の恐怖に屈しないための“噂の
逆流”を仕掛ける。
補給路につながる村々には、解放された捕虜を戻し、「火砲の数は少ない」「天筒は雨に弱い」「照準が
ずれるらしい」と囁かせた。
さらに、諏訪の神官に金銭を送り、「火砲は山の神には効かぬ」「火を恐れるは愚かなこと」といった教
えを説かせる。
“火が人の道理を破るなら、我らは信仰と噂で火を理の側に引き戻す”――それは夢物語かもしれぬが、戦
場において噂は刃となる。 ある山村では、農夫が茶屋で何気なく噂を流した。
「聞いたか、妻籠から火が飛んだとよ」「だが、村では皆無事だったそうだ」
そのささやかな言葉が、風に乗り、谷を揺さぶっていった。
【 高坂昌信の洞察】
武田の重臣・高坂昌信【4】は、山県と内藤の動きを聞きながら、沈黙を保っていた。
信玄から問われる。
「高坂、汝はどう見る」 彼は視線を砲陣の方向へ送った。
煙の尾、兵の動き、補給区画の配置。
「彼らは火をもって焼いているのではありませぬ。人の“拠りどころ”を崩しているのです」 日記に刻むよ
うに、彼は語った。
「火の戦場に必要なのは盾にあらず、秩序なり。こちらの陣が乱れなければ、火はただの音と煙に過ぎま
せぬ」 高坂の言葉が、静かな戦いの文法を一変させようとしていた。
【秀吉、異変を察知する】
秀吉の陣でも、小さな違和感が芽吹いていた。
ある城から返された捕虜は、「空が裂けたというが、我が目には火も光も見えなかった」と語る。
一部の城が火の被害を主張せず、「打ち上げの閃光だけだった」と言い始めた。
深夜、補給路を守る工兵隊が襲われ、火薬樽の一部が消失した。
小屋の片隅に残る焼き跡が、意図的に隠蔽されていた可能性も浮上する。 三成が淡々と報告した。
「敵が“火に反応している”形跡がございます。これは沈黙ではなく、迎撃前の静けさと見るべきです」 清
正は剣の柄を強く握った。
「獣でも人でも、火に慣れれば噛みついてくる。火に馴れた敵ほど、厄介なものはねぇ」 火が戦場の主
役となってから、敵はすでに“火を前提とした戦い方”を選び始めていたのだ。
【 火が返る空気】
火が効かぬ戦場へと、じわじわと誘われ始めている。
火を欺く者たちが動き、情報を操り、火の裏を突く部隊が秀吉軍を包囲し始めていた。
壮大な砲列の背後に忍び寄る影、山奥の小道、村々の噂、そして信仰の言葉。 秀吉自身が作り上げた
「火の空気」が、今や彼自身を縛り始めているかのようであった。 火の影が動き出す夜。
その闇の中で、次の一撃を狙う者と、その裏をかく者の策略が、静かに絡み合っていた。
注釈
【1】 大平峠 (おおだいらとうげ): 信濃国(現在の長野県)の木曽谷と伊那谷を結ぶ、古くからの峠道。戦略上の重要な交通路。
【2】 山県昌景 (やまがた まさかげ): 武田信玄に仕えた重臣で、武田四天王の一人。特に騎馬隊「赤備え」を率いた猛将として名高い。
【3】 内藤昌豊 (ないとう まさとよ): 武田信玄に仕えた重臣で、武田四天王の一人。武勇だけでなく、優れた内政手腕と人格で知られた。
【4】 高坂昌信 (こうさか まさのぶ): 武田信玄に仕えた重臣で、武田四天王の一人。春日虎綱としても知られる。慎重な戦いぶりと情報収集能力に長けていたとされる。




