第157章 降伏の影
(1573年5月中旬)妻籠城城跡
妻籠城【1】と周囲の山々が炎に呑まれてから、二日が過ぎていた。
しかし、城下にはまだ煙が立ち込めている。
森は灰をまとい、尾根の道には焦げた荷車の残骸が転がる。
狼煙台は崩れ落ち、かつて賑わった集落は人の気配を失い、残るは黒焦げの土壁と焼けた瓦だけ。
そして、焦げ付いた土と乾いた煙の匂いが、風に乗って漂っていた。
【恐怖の伝播:神明砦の動揺】 最初の異変は、隣接する神明砦から始まった。
補給路を断たれ、情報も命令も途絶えがちな中、捕虜が語ったという話が砦の兵たちの間に広まったの
だ。
「空が裂けた」「火の雨が降った」――そんな噂が砦内の夜を揺らし、兵たちの恐怖を掻き立てていく。
ある夜、若い兵士が焚火に手をかざしながら震えていた。隣にいた年老いた兵が囁く。
「天が、武田を見放されたのかもしれぬ」
翌朝、砦の兵の半数が荷をまとめ、山道へと消えていた。
弓を置き、鎧を脱ぎ捨て、草むらに紛れて逃げる者もいる。
「神の怒りだ」「天の裁きだ」「山が裂けた」
それらの言葉が、城に残るすべての者の心に、焼き印のように“貼り付いた”のである。
【脱走と疑心暗鬼】 神明砦に次いで、補給部隊の兵たちが動いた。
夜陰に紛れ、荷を背負って山林へ滑り込む者。
わずかな命令を盗み聞きした者が、慌てて飛び出していく。
「荷を持って逃げれば、罰せられぬかもしれぬ」
「ここに残れば、火に焼かれるだけだ」
思い悩む者と、焦る者。声も上げず、ただ歩みを急ぐ。
翌朝には、主要な倉庫の屋根がなぜか焦げていた。
誰かが火を点けたのか、あるいは燃え残りが風で飛んできたのか。真偽は定かではない。
だが、その“火の噂”はにわかに信憑性を帯び、人々をさらに怯えさせた。
【降伏の始まり:鷹ノ巣砦からの使者】 三日後、奥にある小城・鷹ノ巣砦から、一人の使者が城門前へ
現れた。
白旗の代わりに焼け焦げた弓を掲げ、震える足取りで近づいてくる。
城下を囲む織田の兵たちが警戒する中、使者は震える声で言った。
「城主・春日重正よりお伝えいたします――『もはや天に背くことはできぬ』と。
無血での城の明け渡しを、お願い申し上げる」 城門の向こうにいた守備兵たちは、武器を下ろし、息を
詰める。
長老格の兵が呟いた。
「・・こりゃあもう、“戦”じゃねえ」 使者は城主の命を担う者としての尊厳を失いかけながらも、必死に
体を震わせて降伏の意を示した。
その目には、城を焼き尽くされた者への恐怖と、これ以上の惨劇を避けたいという願いが透けていた。
【秀吉・三成の対応】 使者を迎えた秀吉は、報告を受けて深く息を吐いた。
「・・始まったな。“戦わずして奪う”という戦が」 三成は手帳を閉じ、静かに応じる。
「殿。次に備えるべきは、“火を受けた者がどこへ逃げ込むか”です。焼かれた者の心は、次の山を燃や
す“火種”と化します」 秀吉は地図を広げ、その端を指さした。
「次に揺らすのは、ここ、飯田【2】だ。火そのものは届かぬかもしれぬが、噂は風より速く伝わる」 火
は、もはや砲の中にあるだけではない。
捕虜の口、逃げ兵の背中、焦げた森の木々、“天が裂けた”という言葉だけで、人の意志は崩れ始める。
そして、まだ撃たれていない城もまた、“火の幻”に包まれていく。
焼け落ちていない城門にも、まるで裂け目が見えるかのように、不吉な影が走り始めていた。
火は単なる戦力から、支配の道具へと変わろうとしていた。
そのとき、城を守る者たちの心は、すでに揺らいでいた。
注釈
【1】 妻籠城 (つまごじょう): 信濃国(現在の長野県)にあった山城。木曽谷の防衛拠点であり、武田氏と織田氏の勢力が衝突する最前線の一つだった。 【2】 飯田 (いいだ): 信濃国南部に位置する、伊那谷の中心都市。武田信玄の信濃支配における重要な拠点の一つ。




