第156章 天、裂けるとき
(1573年5月初旬)妻籠城
山の稜線が、夜と朝の狭間で揺れていた。
風は冷たく、鳥はまだ眠り、谷間には水の気配だけが漂う。
その瞬間、すべてが引き戻されるような静寂が訪れた。
砲手たちは息を飲み、遠方の山並みを睨んだ。
そこには、武田の補給所、倉庫、狼煙台【1】、そして多くの者が信じてきた“不可侵の山”がある。
秀吉はゆっくりと砲座へ足を進め、朝焼けを背に顔を上げ、指を掲げた。
その声は、夜の静寂を切り裂いた。
「――天を、撃て」 その合図とともに、第一陣、五門の天筒火砲【2】が一斉に火を放った。
【火、翔る】 空気が断ち切られたかのように、轟音が谷を揺さぶる。
黒い砲身から放たれた弾丸は、高々と放物線を描きながら、天へと向かっていく。
そして設計通り、空中で炸裂する瞬間を迎えた。
紅蓮の火の雨が、一気に半径百メートル余りの範囲に降り注いだ。
燃え盛る木々の枝は閃光を放ち、倉は裂け、狼煙台の天蓋は割れ、炎の粒子が空から舞い降りる。
閃光は数秒のうちに夜を真昼のように染め上げ、その轟音は谷底から山肌までを激しく揺るがした。
兵士たちは叫び、盾を捨て、山道を駆け下りるか、あるいは腕をすくめて身を固めた。
「な、なんだあれは・・!」「空から火が降ってくる!」
「神罰じゃ・・天が裂けるとはこのことか!」 中堅の将が怒鳴る。
「冷静になれ! これは火砲だ! しかし、どうやってあれほど高く飛ばしたのだ・・?」
答える者はいない。ただ、恐怖だけがその瞬間の支配者となった。
【冷静なる指揮官】 秀吉は爆煙が風に流されるのを待ち、その目でじっと戦果を見定めた。
炎の尾を追いながら、次の指示を口にする。
「今夜までにあと十門を撃て。夜明けには再び五門。火の手を止めるな。恐怖という名の火を、山一帯に
刻み込むのだ」 清正が苦い笑みを浮かべて言った。
「これでは“戦”ではありませぬな。ただの裁きのようですぞ」 三成は静かに応じる。
「戦は、勝つだけでは終わりませぬ。敵に“二度と戦いたくない”と感じさせることこそ本質。この火は、
そのための最初の“叩き”にございます」 その言葉は、静かな決意の刃のように章の奥底に残った。
【輸送の陰と信玄の遠謀】 しかし、火の威力を示した今、課題は山積している。
この火を運び、維持し、補給線を守る道には、人手と時間と地形という苦難が待ち受けていた。
清正は影を落としながら呟く。
「これほどの火を運ぶ苦労を、決して甘く見てはなりませぬ」 その頃、武田信玄【3】の本陣では、静か
な動きがあった。
知らせを受けた信玄は硯を置き、空を見上げる。
「空を使う火か・・」と呟いた。
隣に控える山県昌景【4】が言う。
「火ではありませぬ、御屋形様。水をもってしても消えぬ、人の心を狙う火にございます」 信玄は筆を
取り、淡々と一行を書き記した。
『答えは、火の裏方にあり』
その文字は未来への予告であり、反撃の意志を宿した種子であった。
【終章の余韻】 火は、ただ燃えただけではない。
その日は、戦場の“主役”が、ゆらりと変わった日でもあった。
人の足では届くはずのない山奥に光を放ち、人の記憶に恐怖を刻む。
火は強い。
だが、火を使う者の限界もまた、明らかであった。
輸送の苦しみ、地形との格闘、情報の制御、そして敵の反撃への備え。
次の一発を、誰が、どの夜に撃つのか。 天は裂けた。
だが、その裂け目は、炎と共に新たな戦いの道筋を示すための胎動でもあった。
注釈
【1】 狼煙台 (のろしだい): 敵の襲来などの緊急事態を、煙や火を使って遠くへ知らせるための施設。山頂など見晴らしの良い場所に設置された。
【2】 天筒火砲 (てんづつかほう): 物語上の架空の大砲。ここでは、砲弾を標的上空で炸裂させ、広範囲に焼夷効果をもたらす、現代のエアバースト弾のような特殊な機能を持つ兵器として描かれている。
【3】 武田信玄 (たけだ しんげん): 甲斐国(現在の山梨県)を支配していた戦国大名。「甲斐の虎」と称され、織田信長にとって最大の脅威の一人であった。
【4】 山県昌景 (やまがた まさかげ): 武田信玄に仕えた重臣で、武田四天王の一人。特に騎馬隊「赤備え」を率いた猛将として名高い。




