表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
156/179

第155章  影火(えいか)作戦 ―― 火の胎動

(1573年4月下旬)南木曽・妻籠城


三成の書付と、秀吉の沈思。


障子の向こうで交わされた静かな諍いは、夜の墨俣から運ばれてきた音と匂いの中で、ひそやかに形を取


り始めていた。


「火は裏に跳ね返る」――石田三成の冷静な言葉が、秀吉の胸の内で何度も反芻される。


四月初旬、春まだ浅い南木曽【1】の裾野に、低く重い唸りが響いた。


ゴゴゴと地を伝う音は、ただの車輪の音ではない。


墨俣製の天筒火砲【2】――第二号改良式、二十五門が静かに搬出された音だった。


砲身は二・五メートルに伸び、重量は増した。


一門あたり三百貫(約1.1トン)というその巨体を運ぶのは、人手と牛の協働を要する労苦であったが、


音は抑えられ、夜の山道は闇に紛れて運ばれていった。


【信長の催促】 陣地への到着を確認すると、秀吉はただちに岐阜城の信長へ早馬を立てた。


「天筒、南木曽に着陣。御指示を」 返りは、驚くほど速かった。


伝令が運んできたのは、信長直筆の、苛立ちを墨に滲ませたような書状であった。


遅い。三月には咲くはずの勝利が、未だ花とならぬ。四月中に焼かねば山も民も草を生やすぞ。


――ただちに焼け――。


秀吉はその文を静かに畳んだ。


信長は時間を待たない。


火は撃てば事は済むものではない。


ここで問われているのは、


何を焼き、何を残すのか、ということであった。


作戦会議の場で、三成は地図を手早く指した。


「武田は山間の連絡網が頼りです。物理的に破壊するのではなく、伝令を混乱させ、噂を先に走らせる。


『山が燃えているらしい』という話が、守る者の足を止めます」


清正は顔を綻ばせることなく言った。


「噂は火より速い。人の足も、伝令の心も、噂で止まる」。


秀吉は信長の命令書を指で弾き、微笑みを含ませて頷くと、宣言した。


「これを、影火えいか作戦と名付ける。信長様には『山を焼いた』と報告する。光で恐怖を撒き、影


で山を揺らすのだ。


影火の手口は明快であった。


打ち上げ花火の性質を持つ弾薬を用い、夜間に山の稜線や隘路【3】の向こう側で閃光を上げさせる。


物を破壊するのではない。


視界を焼き、音で心をかき乱し、「山が燃えたらしい」という話を遠くまで先行させるのだ。


三手に分けられた隊は、それぞれ視界攪乱、城外への威嚇、偽の証言の拡散を担った。


砲身改良の成果は、射程の延伸という形で現れた。


従来は四十五間(約550m)までしか届かなかったが、改良により射程は六十間(約750m)へと伸びた。


光がより遠くまで届くということは、噂の発生源がより敵陣の奥深くまで及ぶことを意味する。


見上げる者が増えれば、語る者も増える。火の影響圏が広がることは、即ち情報の飛躍であった。


四月十五日、試射の夜。大型の天筒が、それぞれ所定の位置に据えられる。


号令とともに火が駆け上がり、空に大きな閃光が走った。


最初に打ち上げられたのは、確認用の弾。現代では曳光弾と呼ばれるもの。


夜空に小さな光の輪が開き、すぐに消えた。


その美しさは祭りの花火にも似ていたが、山麓の見張りにとっては、非日常の訪れを告げる前触れに映っ


た。


伝令が走り、見張りが疑いの声を上げる。噂が、瞬く間に走り始めた。


続いて、開花焼夷弾が放たれる。


砲口を出た光は鋭く飛び、約七百五十メートル先の上空二百五十メートル上空で炸裂した。


空中に咲いた光の輪は直径約二十五間(約270〜360m)、その閃光は山肌を一瞬、真昼のように染め上


げる。


地面に置かれた藁束や人形の代わりに、敵兵の視界が焼かれ、遠方の民家の屋根からもその光が見えたと


いう。


光と音が先に走り、事実は後から追いつく。


これが秀吉の望んだ“影火”の本領であった。


麓の村では、夜明け前から人々が口々に言った。


「山が燃えた」


「見張りが叫んでいた」


「火の化け物がいるらしい」


――話は増幅を続け、武田方の士気と連絡網に小さな亀裂を生んでいく。


城内でも外部からの情報が錯綜し、守備の判断は慎重にならざるを得ない。


物理的な城壁は健在だが、“山が守ってくれる”という確信が揺らいだのである。


秀吉は影火の余波を離れた場所から見渡し、ふと呟いた。


「火は理屈を焼き、形を変え、時代を変える。火が物を焼かずとも、人の心は焼けるものよ。噂が走れ


ば、山は半ばその役割を失う」


三成はその横で、観測班の記録を受け取りながら冷静に応じた。


「殿。届いた痕跡を蓄積し、次にどう動くかを図るのが我らの仕事にございます。火は噂を生みますが、


その噂を処理するのもまた、我らの手腕次第です」 火薬の匂いが夜風に溶けていく。


光の輪が消えた後に残るのは、灰ではなく、「語られる記憶」であった。


影火は山を焼くのではない。山が“焼けたらしい”という影を作り出し、人の心を動かす。


その夜、墨俣の者たちは火の新しい役割を確かめ、そして同時にその責任の重さを噛みしめていた。


火は胎動した。


だが、その胎動がやがて何を産むかは、まだ誰にも分からなかった。


影火の影は長く、静かに山を覆い始めていた。




注釈

【1】 南木曽 (みなみきそ)・妻籠城 (つまごじょう): 南木曽は現在の長野県木曽郡南部。妻籠は中山道の宿場町として有名。この地域は木曽谷に位置し、信濃(武田領)と美濃(織田領)を結ぶ戦略上の要衝であった。

【2】 天筒火砲 (てんづつかほう): 物語上の架空の大砲。ここでは、砲弾を遠くに飛ばすだけでなく、空中で炸裂させて閃光を放つ、現代の照明弾や花火のような特殊な機能を持つ兵器として描かれている。

【3】 隘路 (あいろ): 山間などの狭くて通りにくい道。軍事的には、少数の兵で大軍を防ぐことができる重要な地点。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ