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第154章 火薬工房の始動

(1573年2月)墨俣


三成が去った後の静けさは、かえって秀吉の胸をざわつかせた。


「火は裏に跳ね返る」――その言葉が、耳の奥に残っている。


信長が望んだのは、理屈を超えた圧倒的な威力。だが三成は、それを支える“器”そのものの危うさを見抜


いていた。


秀吉は命令書を見下ろした。


天筒火砲【1】五十門。三ヶ月という期限。輸送・照準・再設計――


道具は整いつつある。だが、それを握る「手」が持つ意味を、あの若者は問いかけてきたのだ。


そのとき、山を隔てた東の方から、金槌の音が響いてきた。


墨俣の工房。火と鋼が鳴く音。


そして、秀吉は立ち上がった。


墨俣の夜は、冬にしては生ぬるかった。


湿った空気に煤と火薬の匂いが混じり、竹垣の奥では百人を超える職人たちが黙々と働いている。


大砲――火の剣を鍛える者たち。


そしてその傍らでは、もう一つの「火の道具」が作られていた。 それは、使い捨ての携行型火器であっ


た。


軽く、小さく、しかし確かな抑止力をもつ道具。


大砲が戦局を揺るがすなら、これは兵ひとりが局地を制するための武器だった。


竹を芯にし、筒状に成形されたそれは、簡素ながらも整った形で、熟練の手によって丁寧に仕上げられて


いく。


「威力より、意図が大事だ」


「驚かせ、退かせ、追わせぬこと。それでよい」 職人たちはそう語り合う。


三成の提案にあった、火の“後始末”と“観測”という理屈が、いつしか彼らの中に根付いていた。


発射のあとの煙や熱、破片をどう抑えるか。被害をいかに限定するか。


一人の少年工が、完成した筒に墨で文字を刻む。


『帰り道を照らせ』――


その筆には、焼き討ちにあった村に戻れなかった父への想いが込められていた。


そして、試射の時刻が来た。 焚き場の奥に、携行型の筒が据え付けられた。


火薬の量を抑え、弾の飛び方を読み、発火の角度を整える。


「――点火!」 乾いた号令とともに、火が走った。


一瞬の閃光。そして――空気が震えた。 空に、直径十三間(約24m)【2】もの火輪が開いた。


橙、紅、白が交じり合う光の円が、夜空を切り裂く。


まるで闇を拒む“結界”のように、火が巨大な円を描いたのだ。


射線上に置かれていた藁束と木の人形は、瞬く間に燃え盛り、炎が小さくなると共に崩れ落ちる。


これは破裂ではない。熱と光で焼き払う“消尽”であった。


風に揺れる火の輪の縁が地面を焦がし、周囲の草を蒸していく。 それは、ただの武具ではなかった。“


象徴”としての炎であった。


「・・輪の大きさが違っても、同じことよ」 工房の頭が呟く。


「威圧でも制圧でもない。ただそこにあるだけで、兵を退ける火だ」 秀吉は離れから、そのすべてを見


ていた。


あの炎の輪――それは戦の境界線。


火が走った内と外で、民の運命は分かたれる。


「火は、進めるだけでは足りぬ。その後に、道を引かねばならん」 三成の声が、脳裏によみがえった。


「灯を残してください。焼かれた記憶の中に、希望を」 秀吉は、少年が刻んだ文字を思い出す。


『帰り道を照らせ』―― 誰もが、炎の外側へ戻れるように。


火の中から、帰るべき道を見出せるように。


夜空に火輪の残光が消え残る中、職人たちは淡々と後片付けに入っていた。


破片を集め、燃え残りを処理し、観測記録を整える。


火を扱う者たちは知っている。


最も重要なのは、火の“後”なのだと。 墨俣の風が、火薬の残り香を運び去っていく。


それはまるで、誰かの祈りが炎に焼かれぬようにと願っているかのようであった――。



注釈

【1】 天筒火砲 (てんづつかほう): 物語上の架空の大砲。当時の大砲(大筒)をさらに発展させた、野戦での運用を想定した新型兵器という設定。

【2】 間 (けん): 日本の伝統的な長さの単位。一間は約1.818メートル。十三間は約23.6メートルにあたる。

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