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第152章 秀吉の決断

(1573年2月)備中高松城


夜の石山は、風が冷たかった。 


山城の廊下を渡る風に、火薬の匂いを染み込ませた布が微かに鳴る。


灯りを落とした離れ座敷の中、秀吉は一人、机に向かっていた。 机の上には、三通の書状が並んでい


る。


一つは、天筒火砲【1】の構造図。


一つは、墨俣の火薬工房から届いた月次報告。


そして最後の一つ――それが、今宵の沈黙を支配していた。 信長からの、直筆の命令書であった。


――羽柴秀吉 殿


汝の知略と工の技、かねてより聞き及んでいる。

武田が山に籠り、戦は動かず。ならば、火にて焼き出すまで。

汝の“天筒火砲”なるもの、すべて余のもとへ送れ。

三ヶ月をくれてやる。その間に、出来る限りの数を用意せよ。

まずは武田を、この世より葬り去る。


――織田信長


火砲――天筒。 それはかつて、秀吉自身が構想し、密かに試作を命じたものであった。


火薬の爆発力で砲弾を飛ばす、前装式【2】の野戦用火砲。


当初は山城や関門の封鎖を想定し、十門を限度としていた。


だが今――信長は「五十門」を、わずか三ヶ月で用意せよと命じている。


墨俣工房の記録をめくる。


現時点での生産能力は、火薬だけで言えば火縄銃にして月産八百丁相当。


砲身の鋳造は犬山の鋳造所が担い、鋳造のやり直し【3】】も含めれば一門あたり五〜六日を要する。


輸送は食糧庫の拠点を経由し、舟で三日、馬で二日、人足では十日。 「・・やれぬ数字ではない。だ


が、“焼け跡の先”を見据えねば、ただの破壊でしかない・・さらに砲があっても火薬が無ければ意味がな


い」 秀吉は静かに目を閉じた。


彼の内にあるのは、単なる恐れではない。“火”をもって勝つことの代償――統治、制度、復興。


それら「戦の後始末」がなければ、焼いた後には何も残らないことを、彼は知っていた。


信長は前だけを見る。


だからこそ、秀吉には「後ろ」を支える者としての責務がある。


「戦を作る」とは、戦の“後”まで見据えてこそ。


裏道を整え、舟便を増やし、関所を動かし、物価を操る――


それが秀吉のやり方であった。


そして今、戦の主役が「火」に移るというのなら、自らの手で、その“つか”を作るしかない。


炎が、敵だけでなく、味方や民をも焼いてしまわぬように。 秀吉は筆を取った。


火薬で煤けた設計図を脇へ寄せ、命令書の帳面を開く。


一文字ずつ、丁寧に墨を含ませながら書き記していく。


『命』


羽柴秀吉、羽柴政庁より通達す


一、墨俣火薬工房および犬山鋳造所は、天筒火砲の製造を最優先とすること

一、火砲の照準安定・砲架強度・装填手順について、即時改良を図り1発の威力を増大すること

一、三ヶ月以内に五十門の完成を目標とし、月次で岐阜へ順次搬送すること

一、運用兵は忍・黒鋤・鍛冶【4】といった技術者家系より選抜し、命令遵守と寡黙を旨とすること


命達 天正元年二月十日 羽柴秀吉


筆を置いた秀吉は、燭台の火に目をやった。


その炎は小さい。だが、確かに部屋を照らしていた。


「信長様が“炎”で突き進まれるなら・・儂は、その炎に柄をつける。使い手が自ら焼かれぬよう。・・そ


して、民の上には決して落とさぬように」 彼は立ち上がり、命令状を封じた。


これが、信長の“破壊”に応じる、羽柴秀吉の“制度”であった。


外では、墨俣へ向かう飛脚が馬を駆る音が遠ざかっていく。


舟で三日、馬で二日。


食糧庫の拠点を経て、裏を支える火の命令が、今まさに走り出した。


秀吉は立ち止まり、政庁の欄干から空を仰いだ。


雲は厚く、月は見えなかった。 「・・焼いたその先に、“道”を引けるかどうかは、儂の腕次第じゃの」



注釈

【1】 天筒火砲 (てんづつかほう): 物語上の架空の大砲。当時の大砲(大筒)をさらに発展させた、野戦での運用を想定した新型兵器という設定。

【2】 前装式 (ぜんそうしき): 銃や大砲の砲口(銃口)から弾薬を装填する方式。火縄銃や当時の大砲はこの方式が主流だった。

【3】 鋳返し (いがえし): 鋳造に失敗した金属製品を、溶かして再び鋳造し直すこと。

【4】 忍・黒鋤・鍛冶 (しのび・くろくわ・かじ): 特殊技術を持つ専門家集団。忍(忍者)は諜報や特殊工作、黒鍬くろくわは土木工事、鍛冶かじは金属加工の専門家であり、彼らを最新兵器の運用に当てることは、その機密性と専門性を重視した人事と言える。

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