第151章 敵を動かす初手
(1573年2月)備中高松城
瀬戸内沿岸、吉備の舟入【1】にて。
「塩は通す。ただし、高松より南へ下る荷に限っての話だ」 関所役人の言葉に、行商の翁は目を丸くし
た。
「そ、そんな・・。備中松山【2】へは通していただけぬのですか?」
「規定だ。書付もある。北へ向かう荷は差し止め、南へ向かう荷には恩典を与える。市の移設命令も下っ
ておる」 役人が指差した通達には、羽柴政庁【3】の朱印が押されていた。
高松より南にある浜倉を新たな市と定め、舟での輸送を優先するとの達し。
さらに、そこを通る塩には三割の減税特典が付く。――しかし、逆の経路、北への荷は完全に封鎖されて
いた。 翁は嘆いた。
「松山の米と交換するための塩が、ここまで来ると値が二倍にもなる。舟の遅れも重なって、蓄えはもう
十日分しか残っておりません・・」
舟便は、潮待ちや川の増水で日数を食い、墨俣から高松まで最速で五日、遅れれば八日以上かかった。
関所での荷の滞留も重なり、塩は完全に足止めされていた。 役人が紙を差し出す。
「南の新しい市で商いの登録を済ませれば、塩は通せる。舟子に頼んで、米の取引は南でやることだ。
今後の儲けは、あんた次第だよ」 翁はためらったが、やがて深く頭を下げた。
「・・承知いたしました。市を移します」 その背中を見送りながら、役人は独りごちた。
「――封鎖ではない、差をつけるのだ。塩の流れが変われば、城下の米も自ずと外へ流れ出す。・・敵を
兵で動かすより、市で動かす方がよほど早い」
その報告は、石山の政庁にも届いた。 秀吉は報告書を手に、三成に問う。
「塩の通行差と恩典、うまく働いているか?」 三成はうなずいた。
「はっ。備中南部の市は移設を完了。舟便は日に十二往復まで増え、塩の価格は北と南で三倍の差が生じ
ております。敵は、“内から”動き始めましょう」 秀吉は目を細めた。
「・・よい。次は“水”と“塩”を、城の内側で握る番だ」
注釈
【1】 吉備の舟入 (きびのふないり): 備中高松城の周辺にあったとされる、足守川から城へ物資を運び込むための船着き場・水路のこと。
【2】 備中松山 (びっちゅうまつやま): 現在の岡山県高梁市にあった城。備中高松城の北方に位置し、物語では経済的な結びつきが強い地域として描かれている。
【3】 羽柴政庁 (はしばせいちょう): 羽柴秀吉が方面軍の司令官として設置した、臨時の行政機関。軍事だけでなく、経済や民政に関する命令も発した。




