第149章 軍議にて ― 戦えぬ勝利の苦み
(1572年8月)三石城
三石城【1】の評定の間。夏の熱が畳から立ちのぼり、机に広げた帳簿の墨がわずかに滲む。
石田三成は巻物状の報告書を横一列に並べ、静かに口火を切った。
「現勢――信長様の本隊五万、諸将の別働隊四万五千、これを支える-重・工兵・雑役一万五千。総計十
一万が七方面へ分進しております。方面軍一つあたり一万五-千前後が敵城を包囲し、一日に消費する米
は四〜五百石【2】相当(俵に換算して六〜八百俵)、塩二十石、馬の飼葉は四〜五千把。補給には川舟
が日に二十〜三十隻、休むことなく往復しております。このままでは、秋を待たずして安全在庫(一万
石)を割り込みます。――戦わずして消耗する、最悪の型にございます」 加藤清正が低く呻いた。
「戦をしに来たはずが……敵はただ籠っているだけで、こちらが干上がるとはな」 羽柴秀吉は地図の上に
手を置き、独り言のように洩らす。
「勝てる体制を作った結果、戦えなくなったか。補給の先で、戦が終わってしまっている。これはもは
や“戦術”ではない、“経済”の戦いだ」
【籠城する敵 ― 讃岐・高松城】
丹羽長秀が一通の書状を差し出した。
「讃岐・高松城(三好方)、籠城の備えは周到。米二千俵、干物五百、塩五十石、酒三百樽、井戸は三
つ。
城門の外には『降伏するまで攻めるな』の札が掛けられております」 机がぐらりと震えた。
清正の拳であった。
「ふざけおって・・ならば出て来いと言いたいわ!」 だが、密偵がもたらした城内の報告書は、淡々と
した事実を告げる。
雑炊の粘りを日に日に落としている/塩を惜しんで兵の傷が膿んでいる/草鞋【3】の底が擦
り切れ、小石が足裏に刺さる――それでも、出てこない。
外へ出れば負け、出なければこちらが痩せる。それが彼らの戦であった。
【兵站の現実 ― 数字が告げる限界】 三成は帳面を繰り、静かに続けた。
「前線の補給所は各地に設けましたが、物資の徴発が農繁期と重なり、輸送の遅れは平均一・八日。
草鞋の消耗は平時の一・五倍、馬沓【4】の履き替えは晴天で二〜三日、悪路や雨天では半
日から一日にまで短縮。荷車の破損率は一割に達しております。
――表向きの戦線は張れております。しかし、“維持する”には重すぎます」 清正が噛みつくように言っ
た。
「七つも腹を空かせながら戦をするなど、いつまで続ける気だ!? 敵が出てこぬというのに、こちらは
七本もの兵糧道を養っているのだぞ!」 明智光秀が静かに言葉を差し挟む。
「包囲は示威行動として維持するべきでしょう。しかし主力は収束させ、一点突破で敵の兵糧道を断つべ
きです。他の戦線は最小限の兵で維持し、舟運と倉の中継点を前進させ、一度に失う量を小さく
するのです」 丹羽長秀もうなずいた。
「河口と支流の舟・馬・人という“継ぎ目”を増やし、塩の流れは海路で滝川一益に断たせる。北陸は柴田
勝家殿が戦線を保ち、前田利家殿は裏で草鞋の列を太らせる」 三成は最後の紙片を掲げた。
「なお、米の在庫は六週間分。七週目から安全域を割り込み、四ヶ月目には“兵は居れど戦えず”という事
態に陥る見込みです」 蝉の声が遠く、評定の間の熱を揺らした。
【補給所が落とす影】
数字は冷たいが、その影は生身の人間に落ちる。
前線の補給所は、村の冬支度にも影響を及ぼしていた。
馬草を刈り取られた田は痩せ、鼠返し【5】に使われた板材は、囲炉裏にくべる薪を減らす。
村役人は「織田の倉は村の倉でもある」と説いて回るが、土間の母親はため息をつき、子供は替えの草鞋
の数を数えている。
勝つための倉が、細い恨みを溜めていく――兵站と統治は、常に背中合わせであった。
【秀吉の反省と決断】
軍議が終わり、秀吉は一人、地図上の七つの印――越中・因幡・美作・備前・讃岐・阿波・遠江――を指
でなぞった。線は広がり、同時に、細っていく。
「・・一気に勝ちすぎようとした。勝ち筋を読んだ将に対し、敵は戦わぬことで応えた。そして戦わぬ者
に、我らは勝てぬ」 補給が通れば動ける――はずだった。
だが今は、補給が通るほどに動けなくなるという矛盾に絡め取られている。
戦線が広がれば兵糧道も広がる。
兵糧道を守れば兵が要る。兵が増えれば飯と塩と水が要る。
こうして一つの戦が七つの腹を空かせ、全体が痩せていくのだ。 清正が短く吐き捨てた。
「勝ったのに、引かねばならぬ。戦ったのに、何も得ていない――そんな勝ちがあるかよ」 三成は視線
を落とし、静かに結んだ。
「ありまする。・・それが、経済での勝ちでございます」 秀吉は筆を取り、地図の周囲に太い枠を一つ
描いた。
「多方面の戦線は畳む。補給は一点に収束させる。そして、突破したその一点で“敵の口”を閉じる。
――敵を飢えさせて、野へ引きずり出すのだ」 軍配が静かに立つ。勝つための戦は、戦場ではなく、台
所と道から始まる――その確信が、秀吉の眼に深く沈んでいた。
【小さな余滴】 評定が終わり、廊下で前田利家が草鞋の紐を結び直しながらぽつりと言った。
「敵は籠っておる。・・だが実のところ、我らは自分たちの兵站に包囲されているのかもしれぬな」 秀
吉は振り向かず、短く応じた。
「ならば、その囲いを破るのは“刀”ではなく“仕組み”よ」 夏の風が、地図の角を一枚めくっていった。
注釈
【1】 三石城 (みついしじょう): 備前国(現在の岡山県東部)にあった城。山陽道を押さえる要衝であり、物語では織田軍の西方方面への前線基地として使われている。
【2】 石 (こく): 日本の古い単位。米の体積を表し、一石は約180リットル。ここでは米や塩の量を表す単位として使われている。
【3】 草鞋 (わらじ): 藁を編んで作る、日本の伝統的な履物。長距離を歩くとすぐに擦り切れてしまう消耗品だった。
【4】 馬沓 (うまぐつ): 馬の蹄を保護するために履かせた、藁製の履物。現代の蹄鉄にあたるが、消耗品であり、長距離の行軍では大量の予備が必要だった。
【5】 鼠返し (ねずみがえし): 蔵などの柱に取り付け、鼠が登れないようにした板状の仕掛け。




