第148章 戦えぬ勝利、籠る敵
(1572年7月)
梅雨が明けた。
山肌にこびり付いていた水気が抜け、ぬかるみは少しずつ硬さを取り戻していく。
峠筋に穿った排水溝は雨水をさらい落とし、改良した鉄芯の車輪は以前ほど石を噛まない。
河岸の接続点では、舟から馬、馬から人へと俵が矢のように手渡されていった。
秀吉は空を仰ぎ、独り言のように洩らした。
「・・ようやく“道”が、戦を支えるようになったか」 だが、その安堵は長くは続かない。
敵が“戦わない”という戦いを、同時に、そして周到に選んだからだ。
【籠城する敵】
越中では上杉勢が、若狭では朝倉の残党が、四国では三好方が――いずれも要害に籠城した。
奇襲も野戦もない。
初めから「兵糧が尽きるまで籠城し、尽きれば開城して降伏する」という算段である。
こちらがどれほどの兵を野に展開しても、敵が出てこねば勝負は生まれなかった。
前田利家は苦く笑う。
「殿、こやつら・・もとより戦う気などない。こちらの兵と物を削るための“籠城戦”よ」 柴田勝家は無言
のまま頷き、槍の石突【1】で土を一度だけ突いた。
戦の針は、静かにこちらの腹へと向き始めていた。
【数字で見る膠着状態】
軍目付【2】の帳簿は、静かな重みで事実を告げていた。
織田全軍は計十一万(本隊五万/諸将四万五千/輜重・工兵・雑役一万五千)。
そのうち七方面に分進。一方面あたり一万五千前後が包囲線を維持し、一日に消費する米は七〜八十石
【3】(俵に換算して一二〇〜一五〇俵)。
馬の飼葉は方面ごとに千把前後、川舟は日に二十余往復のピストン輸送を続ける。
全軍では、米だけで日に四〜五百石相当が消える計算になる。
輸送の遅延は平均一・八日。
草鞋【4】の消耗は平時の一・五倍、馬沓【5】の履き替えは晴天で二〜三日、
悪路や雨天では半日から一日にまで短縮。
荷車の破損率は一割に達した。
「表向きの戦線は張れた。だが、“持たせる”には重すぎる」――帳簿の余白に、石田三成の筆が走ってい
た。
【城の内側 ― 讃岐・高松城】 密偵が運んでくる城中の知らせは、やがてどこも似たような色を帯びてい
く。
讃岐・高松城(三好方)。備蓄は米二千俵、干物五百、塩五十石、酒三百樽、井戸は三つ。
朝餉の炊き場では、柄杓で水を減らし、雑炊の粘りを日に日に落としていく。
塩を惜しめば、兵の傷が膿む。
草鞋の底は擦り切れ、小石が足の裏に食い込み、歩き方は蟹のように歪になる。
城門の内には「降伏するまで攻めるな」との札――外へ出れば負け、出なければこちらが痩せ衰える。
それが、彼らの戦いであった。
【静かなる損耗】 包囲の輪は静まり返り、非戦闘用の装備が前へ出る。
楯、杭木、麻縄、調合石灰――刀槍より先に、道と陣地を繋ぐための道具が並ぶ。
日が落ちると、前線の食糧庫では米俵を油布で包み、鼠返し【6】を付けて床から浮かせる。
塩は袋のままでは固まるため竹筒に小分けにし、火薬壺は湿気で使い物にならなくなるため、炭火の焙り
箱で乾かす。
剣を交えずとも、戦の手間は増え続ける。
人と馬と道具が、目に見えぬ速さで摩耗していった。
【将たちの次なる策】 二条城から届いた秀吉の通達は、短く冷徹であった。
「示威行動は維持しつつ、主力は一点に収束させよ。――敵の兵糧道を断て」 明智光秀は偽の報告と夜
襲を組み合わせ、城下の米蔵に通じる小道を抑え、浅瀬に架けた筏橋の荷を叩くことを進言。
丹羽長秀は舟運の便数を増やし、中継点を前進させ、倉を分散させることで“一度に失う量を小
さくする”策を示した。
滝川一益は海路で塩の流れを縛り、柴田勝家は北陸方面の防衛を保つ。
前田利家は裏で動き、草鞋の列で包囲網の腹を支え続けた。 それでも、敵は出てこない。
勝てる力を整えるほど、戦う機会が消えていく――秀吉が口にした通り、これはもはや“戦術”ではな
く“経済”の戦いであった。
【ある人足の夜】 夕べ。越中の包囲陣の外れ、仮の食糧庫の前。
人足の松蔵が、濡れた草鞋を焚き火で乾かしている。指の股はふやけ、白く皺が寄っていた。
隣で馬方が馬の腹を拭い、擦れて緩んだ馬沓の緒を締め直し、藁束を足して補強する。
「兄さん、まだ行けるか」
「・・行くさ。米が兵の腹に入るまで、俺らの戦は終わらねえ」
松蔵は空を見上げる。
雲の切れ間に、星が一つだけ滲んで見えた。
(戦わぬ敵に、俺らの足で勝つのだ)
草鞋の紐を固く結び、彼は立ち上がった。
【戦えぬ勝利の苦み】
各陣からの日次報告書には「損耗は少ない」と記される。
斬り結びがない。討ち取った首も少ない。
だが、その裏には小さな字が増え続けていた。
遅延一・八日/飼葉不足、代替に萱/草鞋替え不足/火薬湿り、再乾燥/鼠害
「勝っているのに、じわじわと痩せていく」――それは、前田利家の走り書きであった。
戦の針は、戦場ではなく台所と道で進み、勝利という言葉は次第に空虚な音を帯び始めていた。
章末、秀吉は評定に備え、地図上の七つの印――越中・因幡・美作・備前・讃岐・阿波・遠江――を指
でなぞる。
線は広がり、同時に、細っていく。
「――戦線は畳む。敵の口を閉じるのだ」 一点突破と、補給の収束。 敵を飢えさせるための戦が、よう
やく輪郭を持ち始めていた。
注釈
【1】 石突 (いしづき): 槍や薙刀などの柄の末端に取り付けられた金具。地面に突き立てて武器を保護する役割がある。
【2】 軍目付 (ぐんめつけ): 軍隊において、戦功の確認や軍紀の監視、諸将の動向報告などを行った役職。監察官。
【3】 石 (こく): 日本の古い単位。米の体積を表し、一石は約180リットル。ここでは米や塩の量を表す単位として使われている。
【4】 草鞋 (わらじ): 藁を編んで作る、日本の伝統的な履物。長距離を歩くとすぐに擦り切れてしまう消耗品だった。
【5】 馬沓 (うまぐつ): 馬の蹄を保護するために履かせた、藁製の履物。現代の蹄鉄にあたるが、消耗品であり、長距離の行軍では大量の予備が必要だった。
【6】 鼠返し (ねずみがえし): 蔵などの柱に取り付け、鼠が登れないようにした板状の仕掛け。




