第147章 馬と人、そして戦の現実
(1572年6月)
馬と人、そして戦の現実
前線の補給陣地――黒鋤隊【1】の若き技術役、伴内は、竹骨に鉄芯を仕込んだ改良荷車の
脇で、肩で息をしていた。
「・・どいつもこいつも、車の“く”の-字も言わなくなった」 目の前を通るのは、荷車の列ではない。
馬と人足の長蛇であった。馬の鞍には笊状の荷袋が左右に揺れ、飯米【2】・矢羽・火薬壺・替
えの草鞋【3】が括り付けられている。
人足は十三貫(約50kg)の俵を背負い、四里(約16km)の道を三往復もする。
草鞋の底はふやけ、足の裏に水膿が滲んでも、その歩みは止まらない。
黒鋤隊長が、後方から来た二騎に声をかけた。
「利家様、清正【4】様、こちらを・・」 利家は険しい顔のまま、首を横に振る。
「・・悪いが、我らはもう車輪を前線へは出しておらぬ」 清正が淡々と続けた。
「戦場に“道”など無い。あるのは獣道と、ぬかるみだけだ。動かぬ車より、へこたれぬ馬、それに歩き慣
れた百姓の足の方が、何倍も信用できる」 伴内は言い返しかけて、口をつぐんだ。
「しかし、信長様は“仕組みで戦う”と・・」 「承知の上だ」清正は静かに笑む。
「だが今の我らは、今週の飯をどう届けるかで首が飛ぶ。だから馬を使う。
人を使う。死なぬためにな」 利家が伴内の肩を軽く叩いた。
「殿の目指す道は十年先のものだ。だが我らが越えねばならぬのは、今日この一里。ここで躓
けば、十年先も明日もない」
伴内は改良荷車の締め金を見下ろした。栗の木に替えた輪芯は湿気を吸えば膨らむ。
輪の幅は二分(約6cm)広げた。
工具箱は油布【5】で包んだ。
峠には杭を打ち、排水溝で水を逃がし、曲がり角には石を敷き直した。
理屈は間違っていない。――なのに、山は沈黙で答えるだけだ。
そこへ、往来の人足に清正が声をかけた。
「おい、そこの者。今日、何里運んだ」
「はっ、四里を。十三貫の荷を三度でございます」
「足は持つか」
「馬と交代で歩きまする。草鞋の替えが切れぬよう、濡らさぬように・・」 伴内は目を丸くする。
「人の足だけで、それほどまでに・・」 清正は薄く肩をすくめた。
「人の足こそ、百年変わらぬ輸送の基本よ。車が威張れるのは城下まで。山に入れば、車は荷よりも先に
道に足を取られる」
夕刻。焚き-火が泥に赤い影を落とす。人足の松蔵が草鞋の鼻緒を結び直し、隣では馬方が馬の腹を拭
い、擦れて緩んだ馬沓【6】の緒を締め直す。
藁束を一握り足して補強し、軒先に吊るしておいた替えの馬沓をほどいて履き替えさせた。
「兄さん、まだ行けるか」
「・・行く。米が兵の腹に入るまで、俺らの戦は終わらねえ」 伴内は焚き火に背を向け、締め金を叩い
た。
指は痺れ、掌の豆は潰れている。それでも手は止まらない。
(車が理想なら、理想はいつも遅れて来る。――現実は、今運ぶこの飯だ) 翌朝。
峠の霧が薄れ、利家が陣小屋の地図に手を置いた。
「荷の選別だ。楯・調合石灰・工具は前衛に送るのを最小限とし、残りは現地調達と遅配を許す。
舟運を増やし、川から馬、馬から人へと荷を中継する“継ぎ目”を増やすのだ。倉は分散させよ。
燃えず、腐らず、奪われぬようにな」
伝令が走る。浅瀬には筏橋が渡され、河岸に臨時の馬留が設けられる。峠の切通
し【7】を一間(約1.8m)だけ削り、蛇行部に石が敷き直される。
舟、馬、人――手から手へ、荷が矢のように流れはじめた。
それでも利家は、荷車そのものを前線へは出さない。
「道そのものを前線とせよ。黒鋤隊、先へ。溝を切れ、丸太を敷け、石を撒け」 槌音が谷に響き、非戦
闘用の装備が戦を支える。
楯、杭木、麻縄が、槍より先に前へ出る。戦うために、まず届かせるのだ。
昼過ぎ、明智光秀から報告書が届いた。
――舟運便数、日に二十余往復。
――輸送遅延、平均一・八日。
――草鞋の消耗率一・五倍。
――馬沓の履き替え:晴天で二〜三日/悪路・雨天では半日〜一日。
――荷車破損率、一割。 利家は眉を寄せ、短く命じる。
「表の陣は睨み合っておけ。裏で敵の腹を細らせる。――兵糧道を締めろ」 敵は籠城している。
出てこぬ者に、剣は届かない。
だからこそ、兵糧道を断つほかに攻め手はなかった。
黄昏時。雲間から一筋の光が落ち、新しい締め金で締め直した車輪が、今度は石を噛まずに回った。
油布が水を弾き、泥に沈んだ楯がはたかれて立ち上がる。
伴内は拳を握った。
(動いたのは車じゃない。――仕組みだ) しかし、峠の向こうで上杉の旗は凪いだままである。
野に出ぬ敵に対し、こちらは道と倉の重みで痩せていく。
利家は息を吐き、伴内の肩に再び手を置いた。
「焦るな。十年先の道は、今日の一里の上にしか架からん」 伴内はうなずき、濡れた手でまた金具を締
める。
焚き火の火の粉が夜気に弾け、馬沓と草鞋が軒先で静かに乾いていた。
注釈
【1】 黒鋤隊 (くろくわたい): 戦国時代の軍隊において、陣地の設営や道路工事などの土木作業に従事した専門家集団「黒鍬衆」から着想を得た物語上の部隊名。
【2】 飯米 (はんまい): 兵士の食糧として支給される米のこと。
【3】 草鞋 (わらじ): 藁を編んで作る、日本の伝統的な履物。長距離を歩くとすぐに擦り切れてしまう消耗品だった。
【4】 清正 (きよまさ): 加藤清正のこと。この物語では、史実よりも早くから秀吉の部下として登場している。のちに豊臣家の最も有名な猛将の一人となる。
【5】 油布 (あぶらぬの): 布に荏胡麻油などを塗って防水加工を施したもの。合羽の材料としても使われた。
【6】 馬沓 (うまぐつ): 馬の蹄を保護するために履かせた、藁製の履物。現代の蹄鉄にあたるが、消耗品であり、長距離の行軍では大量の予備が必要だった。
【7】 切通し (きりどおし): 山や丘などを切り開いて通した道。




